江戸川の土手、樋野口(水の)一里塚から降りた道は、
途中、坂川を一平橋で渡り、真っ直ぐに松戸駅に向かう。
三郷から松戸駅までの十キロウォークの終盤、今までに
幾度となく歩いた道である。
降りてすぐのあたりには平潟河岸、平潟遊郭があった
という。最初の小道を左に折れるとマンションの谷間に
平潟神社と来迎寺がひっそりと佇む。
来迎寺には遊女の墓があると言うので、左手の奥と見当
をつけて狭い入口を潜る。無縁仏の改葬を行う旨書かれる。
何々家と書かれた墓石の間に幾つか立つ、こんな墓標が
遊女のものかと思いを馳せる。
塀際の墓守道具の間に立つ「横括九居」と彫られた仏像、
気になったので帰ってから調べると、浄土宗の施餓鬼位牌
の異文の一つ「竪通三界横括九居」と言う。もちろん珍紛
漢紛である
墓地を出て石像などを撮っていると、住職と思しき中年
の男性が出て来て挨拶する。庫裏と一体になったモダンな
デザインと渋い色を褒めたのがきっかけで、何と三十分を
越える歴史講釈となる。住職も私も暇なのである。
その話を要約すると、
1.まず来迎寺の建物について。東日本大震災で本堂の瓦
が落ちて改修を頼んだが、三百年を経た構造材が老朽化し、
瓦屋さんが怖がって上がれないと言われ、止む無く建て替
えたこと。檀家衆の寄進では圧倒的に足らずローンが長く
残っているという。
2.土手下だった水戸街道(江戸道)の付け替えなどで
平潟の河岸が廃れ、廻船問屋が妓楼に鞍替えし平潟遊郭と
なったこと。墓を建てて弔ってもらえる遊女はごく稀で、
多くは対岸の某所(!)に打ち捨てられたこと。
3.このあたりは借地が多く、バブル時代にほとんど地上
されてマンションだらけになり、昔からの檀家さんも多く
が郊外に住み変えたこと、等々。
墓参の檀家さんが来て住職に線香を所望し、やっと歴史
談義が終る。
次は江戸川土手下の「青木源内住居跡」へ向かうが、
土手下の一般道(昔の江戸道)は歩道のない狭い2車線。
街中へ迂回しようとするが、おっと獣道(生活道路とも)
があるではないか。
水戸街道の付け替えなどで新しく栄えた「納屋河岸」で
名主として舟問屋を営んだ青木源内家の屋敷跡である。
江戸川沿いの周辺からやっと街道沿いの松戸宿の中心に
向かう。ここでも坂川を渡って行くのである。
堂の口橋の「堂」はこれから向かう西蓮寺であろう。
橋から見る坂川は、江戸川への放水路と本流に分かれる。
「赤圦」の放水路までの右手は前々回、新坂川を歩いた時の
終点であった。
(続く)