我が三郷市の市長選が公示され、四選を目指す現市長(76)に
新人(68)が挑む。前市医師会長のお医者さんである。無投票も
ありかと思われたが、何とか選挙の形にはなる。
三郷市は今年で市政五十年だが市長の苗字は白石、木津、美田と
三つしかない。現木津市長は前々市長の息子である。新たな名前
「青木」が増えるか。選挙は23日である。
さて秩父観音巡りの二日目。御朱印を貰わないので、今回から
「札所巡り」を変えて「館音巡り」と題することにする。
宿の朝食の前に隣接する横瀬川河畔のキャンプ場を散歩すると、
ポツポツと十数張りのテントの脇にバイクや車が停まる。朝ドラ
「舞い上がれ」を観てから二日目を出発。
宿やキャンプ場のある河原から数百メートルの急坂を上ると国道
299号に出る。その国道を少し行った九番の明智寺への交差点からは
再びの急坂。武甲山の麓のセメント工場からローリー車が下りて来る。
今日もアップダウンの一日になりそうだ。今日二日目は、九番、七番、
六番、八番、十番と順不同の道順となる。
急坂を登り切ったところが九番明智寺。アスファルトの広場に六角の
観音堂と小さな本堂(庫裏?)が並ぶ簡素な境内。平安末期、明智禅師
が一条天皇の御后の難産を救うべく九寸の香木から如意輪観音像を彫り、
お堂を建てて納め安産を願ったのが開基という。
道路を清掃中の住職の手を止めて「文塚」について訊くと「女人の苦を
救う願い書を納めた塚という。七番法長寺への道順を確認し、最敬礼で
御礼をして東に向かう。
昨日から度々武甲山に立ち上る煙は、明智寺の脇の三菱セメントの
煙突からである。
次の七番法長寺へはこの三菱セメントの先の小道を辿って国道299号
に戻る。小さいながらも「巡礼道」の標識があり迷うことはない。
横瀬橋を含むクランクの先、国道を離れて法長寺へ向かう坂道となる。
法長寺は脇から入って山門に抜けるという、ウォーキング巡礼では
「よくある」パターン。大きな本堂(観音堂)は小さ目の本堂が多い
秩父では一番の大きさを誇る(間口24メートル、奥行き18メートル)。
法長寺は奥秩父で石綿を発見した平賀源内と所縁が深い。昭和に建て
替えられる前の本堂は平賀源内の原図と言う。本堂内には源内の故郷、
四国八十六番札所、志度寺の縁起が彫られているというが、残念ながら
この法長寺の本堂は立ち入り禁止である。
因みにこれまでのところ、秩父の観音寺はどこも内陣はオープンで
(前立)観音像の撮影も可能である。私も撮っているが、不信心もの故、
この歩行記には掲載はしないことにしている。
山門から出ると門脇に「不許葷酒入山門」の石柱が立つ。葷は匂いの
強い野菜(葱や大蒜など)を指す。
表通りに出て六番卜運寺に向かう。六番沢地区の「かどや」の角、
四山への道標が立つ。既に10時近く、巡礼道の要所である食料品店
「かどや」もシャッターが開くことはなさそうである。
全山石灰岩という武甲山、山腹が無残に抉られる。
昨日の真福寺への麓にもあった「土石流警告板」。更に山に向かうと
卜雲寺への最後の坂道、とんでもない勾配は30%超だろう。
心配したその先の石段は十段ほどでホッとする、狭い境内だ。
この卜雲寺の本尊は武甲山の山頂にあった行基作の聖観音と言う。
山頂から卜雲寺の西方の荻の花が咲く池の畔のお堂に納められ荻野堂
と呼ばれたが、江戸時代に卜雲寺がその別当となり、ここに移された。
墓地への入口の休憩所脇、山頂までが削られた武甲山の「歴史」が掲示
される。平らだった山頂が三角になり、標高も30メートルほど低くなった。
境内を抜けバッグヤードに出る。住職はクラウンに乗る。次の八番
西善寺は南へ2キロほど、武甲山の麓を目指す。残り二山は次回。