信州安曇野から北東に流れ長野市の郊外で千曲川に注ぐ犀川。これに
沿って走る国道19号線が長野市街地に入る手前が安茂里(アモリ)地区。
犀川左岸は山裾の高台である。
ここに、松代(陸軍)大本営と同様、終戦間際に海軍の大本営も計画
され、穿かれた壕や海軍マークの入った備品などが見つかっている。
長野市に住む妹が小学校のミニ同級会で、この歴史を語り継ぐ活動を
している「男子」から資料を貰ったというので早速送ってもらった。
まだ数部の資料をパラパラと捲って読んだだけだが、当時の塚田村長
(息子が後の長野市長、塚田佐氏)の日記などから興味ある「史実」が
覗える。
・九十九里の海岸で「本土決戦」に備えていた「捷36395部隊」の終戦時
の配置が東京・王子ということになっているが実際はこのあたりの小学校
に駐留していたこと(約900名)。
・数ある設営隊の中でも「虎の子」と言われた第300設営隊が蚕棟や民家、
寺などに分宿して壕を掘っていたこと(500名)。
・仲の悪かったはずの陸軍と海軍だが、双方の要人がこの安茂里と松代を
行き来して、最終的には「合同の」大本営を計画していたとみられること。
終戦後5日目、後続部隊に引き継いで帰郷する海軍通信隊の薗田部隊が、
村長など世話になった村の要人を本部とした塚田之安氏宅に招宴し労った
ことなどの記録も残る。
語り継ぐ会では更に個人資料などを発掘し、史実を後世に引き継いで
いくという。安茂里地区は「杏の里」と知られていたが、今は千曲市の
「森地区」が杏の里として有名である。