未来予想図Ⅱを久しぶりに聞きました。大学行っている頃は、毎日聞いていましたが、最近は、余りウオークマンを持たないで生活していましたから。
久しぶりに聞くと、一つ一つの歌詞が新鮮に感じます。
「卒業してから、もう3度目の春、相変わらず、そばにあるおなじ笑顔。
あの頃バイクで飛ばした家までの
私をおろした後、ブレーキランプ、五回点滅。
愛してるのサイン。五回メットをぶつけていたあの合図、
ずっと心に描く、未来予想図は、かなえられていく。
時々二人で、開いて見るアルバム、
まだやんちゃな写真たちに笑いながら
どれくらい々時間いたかしら
こんな風にさりげなく過ぎていく毎日を、
ふたりでバイクのメット五回 ぶつけていた。
サイン変わった今も、素直に愛してる。
きっと何年経っても、あいわらず 愛している
ずっと心に描く未来予想図は、思った通りにかなえられていく
ほら、思った通りにかなえられていく。」
私は、台湾に来て、いつも自分の未来予想をしながら、師範大学の屋上で妄想していました。たばこを吸いながら・・・。
そして、私は、いつも自分の好きな女の子に好きと素直に言えず、「からかう」ことで愛情表現していました。だから、私の人生に得恋をしたことがありませんでした。
子供なのです。大人に成りきれない「子供大人」
だだ、このドリカムの歌の通り、いつまでも「あいした人」をずっーとアイテイル。この気持ちは、いつも変わりません。現在、六十一歳でも、心は、十七・八歳なのです。
馬鹿と言えば、馬鹿です。けど、人間って、こんな馬鹿な側面をいつまでも持って居るものはないでしょうか。皆さんも、年を取るとわかります。
先日のブログでは、失礼なことを書きました。これも治郎流の「愛」として、受け止めてください。
けど、不思議です。高校卒業してから、もう四三年過ぎても、あの頃の想いは、いつまでも、自分の脳裏から消えることがない。だって、昨日覚えた中国語は、今日すでに忘れているのに・・・。それは、記憶するところが違うからです。中国語は、前頭葉で。高校時代のことは、こころで覚えているから。刻むところが違うのです。そりゃ、そうだ。
心の中は、そんなにたくさん入りません。ところで、中国語は、進んでいますか。
ぼちぼちでんな。こんなモンです。私の進歩は。「慢慢進歩了」
再見。
久しぶりに聞くと、一つ一つの歌詞が新鮮に感じます。
「卒業してから、もう3度目の春、相変わらず、そばにあるおなじ笑顔。
あの頃バイクで飛ばした家までの
私をおろした後、ブレーキランプ、五回点滅。
愛してるのサイン。五回メットをぶつけていたあの合図、
ずっと心に描く、未来予想図は、かなえられていく。
時々二人で、開いて見るアルバム、
まだやんちゃな写真たちに笑いながら
どれくらい々時間いたかしら
こんな風にさりげなく過ぎていく毎日を、
ふたりでバイクのメット五回 ぶつけていた。
サイン変わった今も、素直に愛してる。
きっと何年経っても、あいわらず 愛している
ずっと心に描く未来予想図は、思った通りにかなえられていく
ほら、思った通りにかなえられていく。」
私は、台湾に来て、いつも自分の未来予想をしながら、師範大学の屋上で妄想していました。たばこを吸いながら・・・。
そして、私は、いつも自分の好きな女の子に好きと素直に言えず、「からかう」ことで愛情表現していました。だから、私の人生に得恋をしたことがありませんでした。
子供なのです。大人に成りきれない「子供大人」
だだ、このドリカムの歌の通り、いつまでも「あいした人」をずっーとアイテイル。この気持ちは、いつも変わりません。現在、六十一歳でも、心は、十七・八歳なのです。
馬鹿と言えば、馬鹿です。けど、人間って、こんな馬鹿な側面をいつまでも持って居るものはないでしょうか。皆さんも、年を取るとわかります。
先日のブログでは、失礼なことを書きました。これも治郎流の「愛」として、受け止めてください。
けど、不思議です。高校卒業してから、もう四三年過ぎても、あの頃の想いは、いつまでも、自分の脳裏から消えることがない。だって、昨日覚えた中国語は、今日すでに忘れているのに・・・。それは、記憶するところが違うからです。中国語は、前頭葉で。高校時代のことは、こころで覚えているから。刻むところが違うのです。そりゃ、そうだ。
心の中は、そんなにたくさん入りません。ところで、中国語は、進んでいますか。
ぼちぼちでんな。こんなモンです。私の進歩は。「慢慢進歩了」
再見。