台湾治郎

自分の生涯・現在の生活

501 ブログ 501 去る者を追わない

2013-05-26 00:55:54 | 台湾
最近、ニュースで別れた奥さんを執拗追い、殺傷したという事件が起きた。同様なニュースが後を絶たない。ストーカーとなって、別れた彼女を追い詰め、彼女の実家長崎でおばあちゃん・お母さんを殺す。という事件。
もう、男がこんなに女性化してきたのは、いつのことか。男と女のドラマは、様々あるだろうが、相手が「さよなら」と言えばそれで終わる物。ところが終わらない。本人が納得できずに、あげくは、ストーカーとなり、犯罪者へ変質する。
男女関係の基本は、相互理解と相互愛。これが切れた時点でもう、その付き合いは、終わり。これは、世間の常識と思っていた私には、どうもわからない。執拗に相手を追いかける。
 世代の差なのか。20代・30代の人が持つ特性かもちろん、特別な人。だれでも「こだわり」がある。自分を振るなんて、許せないということかあるのかしれない。けど、何を言おうと、一度切れた「縁」を復縁するのは、難しい。
 大体、大人に成る前に、10代で練習してこなかったのだろうか。
追いかける性格。これが私には、理解出来ない。私も、頼まれてそう言う人間に、説得したことがある。いくら言っても理解しない。この親に言っても、わからない。本人は、相手は、一時的に私を嫌いになっただけで、必ず、自分の必要性を認識するから・・・。それなら、
その時まで、放って置いてくれ。と言って、ダメ。まるで幼児と話をしているような感じ。そう、幼児になってしまったような性格。子供帰りなのか。不安がそうさせているのか。 びっくりするのは、親に話しをしても、何も出来ない。子供を監禁する訳にはいかない。もう「大人」ですから。その大人が「おとな」に成りきれないから、こうして話をしているんだ。子供を説得できない、子供の行動を制止できない。
 結局、相手の職場の上司に言い居ます。オタクが、何も出来ないのであれば・・・。
もちろん、 こっちは、仕事も住所も、携帯も変え避難。大事件になるまで「冷めない」
何なのか。この執拗な性格は、・・・。真面目とは、違う。何かおかしい。親も少し似ている。  
 警察も、普通に話をしているだけでは、らちあかない。動かない。弁護士等を依頼して、初めて、認識して動き出す。この動きは、ニュースでよく知られている。当事者性を全く感じられない。他人事。事件が起きてから、動き出す。事前に動くことが出来ない。なんとも当てに出来ない警察。
男女関係の基本は、相互理解と相互愛。この教育は、学校ですることではない。親が教えるべきこと。自然に育てば、身につける常識。その常識が今、違ってきたのかな。
私は、ストカー事件が起こる度に、親の責任を感じてしまう。他の犯罪についても同様だが、家庭教育の崩壊が進んでいると言うことか。
 残念。けど、人間として、ギリギリの「マナー」「エチケット」を持って欲しいと思う                         再見。

500 ブログ500 もう500号。

2013-05-26 00:40:00 | 台湾
最近は、一日に何回も更新しているから、一つ一つに愛情に欠けている場合がある。
やはり一日一つぐらいで、愛情こめて、書いた方が覚えている。最近は、思いつくことを書き、ご迷惑をたくさん掛けてしまったようだ。
文は,人なりと言うが,前のを読むと、少し懐かしさがあったが,最近のは、自分でも
やりすぎ感がある。乱造すれば良いという物でもない。どうも、私が少し塡ってしまったようだ。最近は、無理せずに、自分の生活感を出せばいいや、たくさんの人に読まれなくても、自分の記念碑ぐらいの感じ。
 一日ひとつ。二つ。反応は,私が日本語教師になれば、身近に聞くことが出来る。
そんな日が来ると,信じて生活しています。ブログを書くことと、中国語の勉強比が六・四から最近は、七・三ぐらいに成ってきた。どうも本末転倒。自分の生活のペースの改善。意識変革が求められて居るのかもしれない 。集団から離れて生活していると、意外と替えるのは、大変。生活総体を改めないとダメかもしれない。
人が生活するのに集団から離れて、生活するといつの間にかどこかズレてくる。軌道修正は、他の人がいれば、容易だか一人だと,つい自己チェックが甘くなる。人の常。
 人に辛く,自己に甘い。
 「言うはやすし、行うは、難し。」ま、そのうちに書くことも言うことも思いつかなくなる時代が来るかもしれない。気づかずに同じ文章を何回も載せるかも・・。その呆けが始まっているのかも・・・。ただ人は、生きて限り何か感じて生活している。それを書けばいい思って居るだけ。読まれる方が、アンタの考えは、もうわかりました。と成るような気がしますがそれも仕方なし。夫婦生活も長くなると、「空気」のようになる。それと同じかもしれない。私のブログは、「空気」 ほど重要な物ではない。生死を決めるほど価値のある物ではない。自分の記録と生徒へのメッセージ程度。
生きにくい現代社会の清涼剤にでもなればしめたもの。なんでこんなに若者が生活しずらい日本になったのかいつもこのテーマが頭から離れない。
それと,最近は,煩悩が少なくなってきている。かってほど、性欲を感じない。自分でもわからない。前感じだことが嘘のよう。嵐が去った後のよう。まだ、来ることだろう。ひとつひとつ自然。リズムがある。それに従って生きている。自分がその欲求を感じなくなっているのも事実。それも自然。成り行くに任せる以外にない。わかった現在ギャンブルしていることが、それを打ち消しているのかもしれない。一つの煩悩は、他の煩悩を打ち消す。とりあえず、治郎流に生きていきます。
 書き続けること。これが大切。その時々の自分の感情・思い。もちろん共感されないものもたくさんあると思います。感性というのは、ひとりひとりみんな違う。だから人間は、面白い。ひとりの人を観察していけば飽きない。それと同じ。みんな真剣にその日その日を精一杯生きている。誰も時としては、休みたくなる,サボりたくなる。そんな思いに私も襲われる。みんな同じ弱い人間。だから強く生きようとする物です。
 500号に思うことは、果たして九月から、日本語教師になっていられるかどうか。
自分のことながら、他の人があることだから、どうなるよら自分でもどんな展開になるか楽しみにしています。
 次に、記念は、1000号。来年まで、つづいているかどうか頑張ります。