台湾治郎

自分の生涯・現在の生活

462 ブログ462 いろんな新しい人が

2013-05-13 21:05:47 | 台湾
私は、よくマックで「知恵」さんと「黄」さんと勉強します。
今日は、マックに千恵さんも黄さんも来ません。その代わり、日本人と知り合いました。
国際学舎の住人の様です。一人は、東京江東区、もう一人は、栃木県出身。
二人とも、まで、来て一ヶ月。新しい人が次次に勉強しに来ています。
まだ、大学卒業したばかり。大学卒業する前に来れば、良いと行ったら、休学するのに、
五十万も掛かるとのこと。そうなんだ。大学も、休んでも、お金を取る時代。
やはり、大学授業料は、無料にしなくては、ダメ。
 私の目の前には、フランス人が居ます。この人達も、国際学舎かも・・・・。
七張駅近くにいると、国際学舎の人によく会います。
日本人が去っても、新しい人が、台湾に来ます。
結構、中国語を勉強しに「台湾」にたくさん来ています。
もちろん、私は、彼女達の名前も、電話番号も聞きません。
だって、次会うか、わかりません。
 人は、出会えば、必ず、別れが来ます。
私の隣に、85歳の元警察官の方がいます。彼は、ほとんど、このマックで一日過ごします。彼とも、時々話しかけます。もちろん、台湾語だったり、日本語だったり、中国語だったりします。
 中学生とは、腕相撲したりしてお互いの男としての「力」を競い合います。
もちろん、私より強い生徒も居ます。もちろん、私が負ける時もあります。
いいんです。「遊び」です。いいんです。遊ぶことが大切です。
もちろん、中国語も少しは、勉強しますが・・・。彼らと話すことが、結構、勉強になります。まだ、このじいさまと孫の話をしたり、歌の話をしたりします。
 この所の台湾は、もう夏。雨がいつでも降ります。それも、もの凄い量の・・・・。
この蒸し暑さが台湾の特徴です。この暑さに負けなければ、もう台湾で生きていけます。
言葉は、後から付いてきます。自分が話さなければ、いけなければ、自然と出て来るものです。どうしても、わからなければ、「絵」を書いたり、辞書を使ったりして・・・。
それと、台湾で便利なのは、「旅の指さし会話調」台湾。この本を持って居れば、台湾人が教えてくれます。台湾人は、とても「親切」です。嫌な顔は、滅多にしません。とくに学生は、私が日本人だと知ると、話しかけてきます。あと三ヶ月。こんな風に、生活して、「仕事」を見つけます。仕事の見つけ方は、「1111」の登録の仕方がわかりません。
ま、そのうちわかると思います。先のことは、心配しないのが、私の特徴。
今が、楽しく勉強出来ればいいのです。自分が諦めない限り、中国語は、逃げません。
私が、少しでも、諦めたり、辞めたりすれば・・・。私の特徴。回り道しますが、いつか
自分の思ったことを自由に言える日がくると・・・。
 ま、のんびり自分のペースで勉強も、生活も、するのが一番イイ。
では、さようなら。
                               再見。
 

461 ブログ461 私は、定時制に・・・・・・。

2013-05-13 05:10:31 | 台湾
2年間、定時制の図書館に勤めていました。
これは、私の家が貧乏だと知った土肥健吾先生のご配慮。高校卒業して、翌年、次の歳まで。
 当時、給料五万円貰っていました。勤務時間は、五時から十時。たった、五時間で五万円。一日、約二千円。これは、結構大金。だって、当時、時給三百円は、行っていない時代。昭和45<46>年の二年間。
 この私の母校、東京都立南葛飾高校で司書の仕事をしていました。
定時制の生徒、全日制の生徒両方の知り合いが出来ました。全日制の生徒は、受験勉強に図書館を・・・。本当は、定時制の時間だから、ダメでしたが・・・。当時の定時制校長がいいって言ってくれたから・・・。三人ぐらい。
定時制の生徒は、大変。五時半が給食。授業は、四時間。毎日毎日仕事を終えた後。
勉強。そりゃ疲れる。時々、図書館に、寝に来る生徒も居ます。もちろん、私は、寝かせておきます。ストーブも、クーラーは、・・・。あったかどうか覚えていません。
 私は、今平成25年5月13日(月)現在、高校の中退者が七万人。貧困の連鎖が・・・・・。同じです。私の生きた時代と。むしろ現代の方がひどいかも・・・。
当時食べられない人は、いません。当時も、いまも給食は、とてもおいしい。
もちろん、給食費は、私も払っていました。当時、いくらだろうか。二百円として、三千円位かな。
残りのお金は、どうしたの。もちろん、大学へ行くために使いました。こんなに大金持ったのは、初めてでした。毎月、四万七千円。だって、浪人生だから、昼飯代ぐらい。
昼間は、葛飾区の立石図書館で勉強していました。三四番の席へ。
ところが、その図書館司書の女の人が・・・・。どういう訳か、私に、お弁当を毎日作ってくれるようになりました。いつも、断るのに・・・・。彼女とても身体の大きい人でした。私より、一つ年上。名前は。忘れました。
 はっきり言って、美人ではありませんでした。それと、私の好みでも・・・・。
私にとって、有り難いような、・・・。よくわかりませんでした。
たしかデートもしました。後のことは、ご想像にお任せ。
 だから、図書館は、昔から、『好きなところ』でした。現在も、新北市の大坪林の図書館を利用しています。
 私の人生を変えたのも、図書館でした。昭和40年。中学二年生。これが私が初めて、勉強、読書、まるナニーを覚えたのと、ほぼ一緒。勉強とオナニーは関係ありますか。
私は、関係あると思います。「ストレス」がたまるとやりたくなります。
そう言う物です。男というものは、・・・・。
みんな同じです。
人間。他の人の助けがあって今日があるのです。
土肥健吾先生ありがとうございました。
再見。

460 私の財産は、生徒です。

2013-05-13 02:33:50 | 台湾
 大丈夫です。生徒の個々の名前は、あげません。
私の人生の中での一番良かったのは、いろんな生徒に出会えたということです。もちろん、私が影響を与えたなんて、少しも思っていません。
けど、教師という仕事は、改めて楽しい、仕事だと思います。だって、生の生徒の人生に関係することが出来る。しかも、ライブ。
人生は、いつもライブ。失敗しても、笑っても、OKです。
 私のやっていたことは、弱い生徒が泣いていないか、苦しんでいないか、それだけです。
勉強は、好きでも、嫌いでも、本人がしたければ、援助するだけです。
 教師の仕事は、支援者。応援者だと思うのです。もちろん、先生によっては、殴ったり、怒鳴ったり・・・、いろいろな先生が居ました。
私には、同僚ですから、安直に批判できません。いろんな先生が居て良い。生徒のことを本気で思う先生。一生懸命考え、援助、サポートしてくれる先生。すべて、生徒のことを考えてくれれば良いだけです。それがすべて。私の好きな先生は、前何人か、書きました。
一つの像が出来るくらい似ています。いつもニコニコ。生徒のためなら、朝早くても、愚痴を言わずに、ひたすら、縁の下の力持ちの先生。
そんな先生が私の理想像です。偉くならなくても、生涯一教師。
 「この生涯一教師」という言葉は、大好きな言葉です。
アホで、おっちょこちょいで、泣き虫の私が、よく務まりました。自分ながら、「まあまあがんばったかな」と思います。
途中で投げだそうとは、・・・。一回だけ。それ以外ありません。
 今、思うと、本当に不思議な仕事。やりがいのある仕事です。だって、毎日、自分の映画を作っているような、そんな気持ちです。
まだ、この「治郎物語」は、続きます。私があの世へ行ったら・・・。
 それでも、書いているかもしれません。
台湾に来て、「日本の良さ」が見えてきました。それは、人間の義理・人情に厚い。確かに、昔ほどでは、ないけど・・・、それほど、すてたもんではありません。それと、綺麗。都市も、女の人も。綺麗になりました。
 時間と共に、生徒も年を取りますが、私の中では、いつまでも、君たちは、13歳~15歳の少女であり、少年です。青春前期。
だから、白髪を見つけたり、お子さんが、もう大学生と聞くと、少しびっくりします。当たり前だ。みんな成長する。
成長しないのは、この酔っぱらい親父。これは、人間国宝。上から読んでも、下から読んでも、「山本山」。
 今、教師という仕事になるのが困難になっているのが残念です。先生が、少し抜けていると、生徒がきちんとカバーしてくれます。
生徒は、よーく物事を見ています。いろんな人が先生した方が学校が楽しい。
ま、保護者の要求も、教育委員会、校長、教頭。様々な管理があるでしょう。だから、・・・。大体教員試験自体本当に簡単でした。
治郎張が勉強したからじゃないの、こんなことありません。社会科の教科書を中学校一年、二年、三年。高校の教科書一年、二年、三年分を読みました。それだけです。現在は。知りません。昭和50年に公務員になろうという人が少なかった時代。だって、民間の方が待遇も、給料も・・・。良かった。
 けど、私は、教師という仕事を選んで良かった。幸せ者だと思います謝・謝あなたfont>
                                                  再見。

459 ブログ459 映画監督は、すばらしい。

2013-05-13 01:49:35 | 台湾
この仕事は、あこがれます。
私は、山田洋次の作品が一番好きです。宮本信子の旦那さんの伊丹十三も好きでした。ビートたけしのは、そんなに好きではありません。映画を作る人は、小説が書ける。だって、一つ一つの場面が映像化できる。もの凄い才能です。小説も才能ですが・・・。
 映像の方が分かり易い。今、日本でどんな映画が流行っているか知りませんが・・・。
山田洋次の作品には、日本人の持つ「情」「義理」『温かさ』・貧乏生活・障害者・学校行けないの苦労が描かれている。
 学校の1・Ⅱ。Ⅲの三部作は、大好きでした。私は、基本的に、学校を舞台にした「テレビドラマ」は、見ません。だって、どうも、嘘っぽい感じがして、見たくありません。
ところが、山田監督の映画では、全然嘘っぽくないから、不思議です。何とも、見を終えた後に、爽やかな気持ちにさせてくれます。「優しい気持ち」に自然になれるのです。
 伊丹の作品も、一つ一つの場面のリアリティーさと社会の問題を鋭く描く視点。
 この、物の見方は、すばらしいと思う。
釣り馬鹿日誌、寅さんシリーズのように、マンネリでも、いつも楽しく笑ってられる付く品が好きです。ばかげているが、実に楽しい。映画は、やはり楽しくなければ、映画でない。台湾の入場料は、300元。日本では、二千円。ウニクスは、一日は、60歳以上は、千円。よく、見ました。もちろん、一人で・・・。年、7・8回。
 私は、この映画とか、漫画は、国が少しお金を出して、日本の輸出産業にすれば、もっと、すばらしい作品が出来る様に思う。以前に一度、ブログに書いた覚えがあります。
特に、日本の漫画は、世界でも、一流です。外国人は、日本のことを漫画から、勉強している人も多い。だから、日本の文化を海外に紹介するのは、映画とアニメ。
この二つは、世界で、結構闘えるレベルにあると思う。とくに、漫画。
 だだ、どちらも、後継者が育っているのか、特に、日本映画界は、少し落ち目。
私の子供の頃、娯楽といえば、「映画」でした。だから、映画会社が5社。
日活・東映、大映、松竹、東宝。今あるのは、松竹位か。テレビの子会社の様になっている。確かに、これだけ、娯楽が多様化すると、映画を映画館で見るのは、少なくなっているのかも・・・。なんとも寂しい。
 若者が映画監督になりたいという人が、続々出て、映画界を賑わせるそんな時代がこないだろうか。大衆娯楽としての「映画産業」を大切に。テレビは、あくまで、テレビ。
やはり、あの大画面で見る迫力。音楽は、茶の間で見るのとでは、「臨場感」がまるで違う。
 がんばれ。次世代の山田洋次。伊丹十三。
いろんな監督が出てきて欲しい。
もちろん、私は、そんな才能ありません。
再見。