台湾治郎

自分の生涯・現在の生活

441 ブログ 441 私らの時代は、塾へ行く人は、稀。

2013-05-08 18:15:23 | 台湾
時代の違いと言えばそれまでだが、昭和30年代に塾へ通える家は、金持ちです。私の家では、誰も通いませんでした。近所の人もいなかった。だから、学校が終わると、みんな公園・神社に集まり、メンコ・ビー玉。鬼ごっこなどなど、たくさんの遊びを覚えました。その集団の中で、生き残る知恵を身につけるのです。もちろん、意地の悪いガキ大将もいます。そういう人にも、嫌われないように、適当にごまをすることを覚えました。
だから、私にとって、師範大学は、窮屈だったのです。小学校。中学。高校。大学。教員。
その生活の中で、唯一あったのは、教習所。自動車免許。これは、勉強と言うより訓練。だから、今まで、他律的に生活を縛られた経験がないのです。大体、塾(学校)を縛られると捉えること自身が間違え。けど、私には、そう感じる側面もあったから・・・。
 いつも、自律的に生きるのが好きです。
先生をしていれば、いろいろ縛られるでしょ。
仕事になれば、別です。そりゃ、当然のことです。お金を貰って、自由というわけには、いきません。教育する責任がありますから。教師として、真面目にやりましたか。
ま、そこそこということにしておきます。自分の評価と生徒の評価は、違うでしょうから。けど、生徒の評価の方が正しいと思います。
私は、学生時代、塾の先生も、塾経営もしたことがあります。儲かるのは、雇われ教師の方が儲かります。結構塾は、経費が掛かります。とくに、家の借り賃。これが馬鹿にならない。 あまり、生徒集め熱心にしませんが、三十人位。一人、月謝五千円取った様に覚えています。アパートの家賃がいくらだったか、三万か、五万。それに、もう一人、雇っていたから、彼に、給料を払うと、残り、五万ぐらい。ところが、交通費等引くと、儲けは、三万行くか行かないか。半年から八ヶ月ぐらいやり、辞めました。生徒達には、他の塾を紹介しました。そしたら、その塾は、一ヶ月8500円も取っていました。
 大体、塾は、本当に必要なのでしょうか。需要は、あるでしょう。勉強のわからない人がいる限り、私立の受験制度がある限り、「受験技術」を教えるために必要でしょう。
そうかな。そんな技術は、自分で考え身につければいいと思いますが・・・。
今は、就活塾もアルくらいですから。ま。そう言われても、六十一年間未塾児だった私とすれば、本当に必要か疑問に思います。生きていく上で、「技術」は、必要ですが・・・。それを塾で習う。そう言う時代なのです。
 私は、技術は、自分の身体で覚える物で、「習う」物ではないように思うのですが・・。
ある程度の基本は、しょうがないとしても・・・。特別なもの。例えばフランス料理、中国料理。ドイツ語。中国語。英語。自動車修理。などなど。技術が物を言う時代ですから、 これは、いくら言っても、水掛け論になりそうです。けど、なんでもかんでも習おうとする人は、自律心・自立心が欠けてこないですか?そんなこともないようです。むしろ、自分に投資をする人は、喜ばれます。そんなものかな、不思議な時代が来たものだ。
再見。

440 ブログ440 オランダの教育は、すごい。

2013-05-08 18:09:04 | 台湾
ユーチューブで教育と検索したところ、「オランダの教育」が登場しました。尾木直樹氏が出ていました。オランダは、大学試験。授業料。すべてありません。
人間が自律的に生きることを目標に国・・地域がそれに基づいて、学校を支援するというシステム。例えば、教える内容は、ある一定決めるのですが、それを勉強する時間等は、生徒が決めます。教室の中では、先生の授業を聞いている生徒も行けば、数学を、理科を勉強することもあるのです。また、先生も、そのように自分で決めた方が、自律的人間になるとして、認めています。大学も、試験制度はなく、勉強したい人が行く。すべて自分でどこの大学、何の学科か決めます。
 オランダは、移民の国ですから、他の民族との共存が大切です。いろいろな価値観を共有しながら、国、社会が成り立っています。1600~2000万人の人口。国土の四分の一が海面下に国です。
日本のような、競争教育は、ないのです。勉強は、自分が必要な人がすればいい。
競争に勝つための詰め込みは、ないのです。その代わり、自分の決めたことには、責任が伴います。 この自律心・自立心こそ、この国家教育の中核です。
 オランダの「子供の幸せ度は、世界一 」と言われています。確かに、日本の教育は、学校の規則等でいろいろ制約しています。そう言う制約は、オランダでは、必要無いのです。服装も、何もかも、自己判断。そういうのを幼児期から、訓練し、自分でやることを決め、友達と勉強していきます。それと、クラスが、異学年齢集団。二三歳上の人と一緒のクラスで勉強し合います。だから、互いに教えあったり、話し合ったり、自然に身についています。 先生は、あくまで、生徒のサポートする、時として、アドハイスする存在。自分の生活の学習内容・時間割等みんな自分で決める。日本の大学生のやり方を小学生がやっているんです。
 自由が大切で、この自由に責任を持たせる。
こういった教育を見ると、日本の教育は、確かに効率的で、無駄がないように思えるが・・。そんなにたくさん教えなくてもという位たくさん教えています。そして、
それを「試験」という関門でしばり、・・・・。ま、日本の教育にも、良さは、あります。それは、「従順」な人間。「真面目な人間 」を作るのには、いいでしょう。ところが今や。その従順・真面目さだけでは、乗り越えられない 時代が訪れているように思います。
さまざまな「変化」に対応出来る人間。あまりにも、社会の変化が激しく、私のような
アナログ人間には、ついて行けないくらい、情報社会の変化が大きい。
 けど、思うのです。自分の人生です。自己決定し、自分で切り開いていってください。
けっして、自分の生活がこうなったのは、時代、社会、親、先生などにせず、自己責任といて、生きる覚悟をして、生き抜いてください。そして、疲れたら、仲間に相談し、腹の中には、明日への意欲で一杯にして生きる日本の若者であって欲しい。
現実は、そんなに楽観出来ない現実がたくさんあるのは、重・重知って居ます。
 だからこそ。夢・元気だけは、もって毎日生活してください。
再見。

439 ブログ439 五月病に一度だけ罹りました。

2013-05-08 02:27:15 | 台湾
ま、これも昔の話です。四月は、元気に大学へ通いました。ところが、・・・。
なんか浪人時代の方が充実していた、こんな大学生活は、・・・。こんな思いに囚われ、確か、一ヶ月ぐらい、大学を休んだ時期がありました。原因は、簡単なことです。浪人時代、私は、結構勉強し、喜びさえ感じていました。浪人生活って、こんなに楽しい。充実した日々。それに対して、大学生活は、全然つまんない。毎日、授業に出て食事して、・・・。当時、落研に入っていましたが、まだ、自分の居場所が無い状態。
だから、毎日、毎日 本を読んで、ごろごろしていました。当然、本屋以外、
外出もしませんでした。家の中で、ごろごろ。まるで「なまけもの」のように。
お袋も、たまに何か言いますが・・・。私が反応しないので、放って置いてくれました。こんなはずではない。あんなに勉強したのに、何、あの大学の授業。全然面白くありませんでした。当時は。一教室三百、五百人の授業が当たり前。だから、休んでも、何しても、先生は、気づきません。大学って、こんなところ。そんなはず無い、けど、現実は・・・。恐らく、自分の描いていた大学生活と、現実の乖離が大きくて・・・。
 その間。ひたすら、読書。それ以外することありませんでした。だから、食べては、寝て、本を読み、また、眠り。本を読み。もちろん、昼も夜も逆転。今考えると、五月病とわかりますが、当時の私には、五月病がなんであるか、全くわかりません。とにかく、その時は、大学へは、行く意味を感じませんでした。だから、本の中に答えがあるのでは、と思い探し、探しましたが・・・。全くわかりません。何をしたかったのか、何のために大学へ行くのか、目的を喪失したのです。
 人間、生きている目的を失うと、こうなるのです。そう言う見本が四十三年前の私です。そう、私にも悩んだ時期がありました。けど、答えは、中々見つからず・・・。ま、本を読む以外、することもやることもないから・・・。ごろごろ。まるで雷の・・・。コロコロと同じ音ですが・・・。全然元気も・気力も・・・・。食欲も、性欲も・・・。どうでも良い何とでもなれ。もう考えることも、めんどくさくなり、・・・・。まるで、痴呆状態。よくお袋、親父が俺の生活に文句をいわなかったなあと思うくらい、ぐうたら状態。まさに、このぐうたら。 今でいう軽いノイローゼ状態だったのでしょう。
いつ直ったのか、いつ回復したのか、全く覚えていません。
恐らく。大学に行く目的を再確認したのでしょう。
「教師になるために大学に行くんだろう。」そう、私の目的は、ひとつ。教師になるため。その目的以外には、ありませんでした。
だから、教職の授業だけは、出ていました。
私の自慢は、授業で無くても、「単位」だけは、落とさない。これは、大学生活のたった一つの自慢。「優・良・可・不可」の四段階の成績で、四年間で「優は、六つ。良は、たくさん。可もたくさん。不可は、ゼロ。」
皆さんも、新緑の季節。新しく、部署が変わったり、環境がわかり、時々、五月病にならないか、チェックした方が良いですよ。
再見。

438 ブログ 438 葛飾区立石の火事

2013-05-08 01:45:17 | 台湾
昨日、ニュースで東京葛飾区立石の商店街の火事を見ました。
久しぶりの立石でした。昔から、ごみごみした商店街でした。学校の帰り道に商店街へ。よく「うま」と呼ばれる安いラーメンでお腹を満たしたのを思い出しました。「うま」の名前の由来は、馬に食べさせるほどの大盛り。一杯当時、50円。昭和42年ぐらいの物価ですから。けど、安くおいしいラーメンやでした。現在は、そのお店は、ありません。
同窓会の時、確認しました。平成12年ぐらいに、一度、同窓会があり、出席しました。
たしか幹事をやらされ、住所書きやら、いろいろ段取りしたのを覚えています。
 結構たくさんの人が参加してくれ、二次会の会場が入りきれなかった。それでも、狭いお店の中で青春時代のことを語り合いました。当時の先生方も何人か出席してくれて、
先生方と現在先生をしている人も一緒に写真を撮りました。そしたら、14・5人先生が居ました。全員が、360人の学校で、5%。実際は、もっと多い様です。 当日出席出来ない人も居たから。それと、当時は、先生は、なりやすい職業だったのでしょう。今は、生徒数が減っているから、結構難しいようです。
 その同窓会では、幸ちゃんを中心にグループが出来て居て、・・・。私も呼ばれましたが・・・。途中から、綺麗な人が、私の腕をつかみ、「私覚えていますか?」「もちろん。雅代さんでしょ。」「うわー、嬉しい私のこと覚えてくれたんだ。」「当然。私にとって、青春の大きな記念像です。あなたは、・・・。」「ありがとう。そう言ってくれて・・・。」いろいろ語り合いました。時間が過ぎ。
「私、もう帰らなくては、・・・。」「じゃ、俺が駅まで送ります。」
2人で、商店街を歩き、自然と彼女が私の腕をつかみ肩を寄せてきました。
高校時代は、手をつなぐのが精一杯だったのに・・・。不思議な感情が・・・。
彼女は、老いても全然変わりません。むしろ、綺麗になっていました。いろんな話をしたいのに、言葉が出てきません。不思議です。私は、いざとなると、余りおしゃべりではなくなるようです。恥ずかしがり屋の自分が出るようです。彼女の連絡先だけ聞き、別れました。
その同窓会から二年後、彼女に電話して、 渋谷で彼女とデートしました。2人で食事して、カラオケに行き、へたくそな歌をたくさん歌いました。彼女は、そんなに、歌は、うまくありませんでしたが、一緒に肩を寄せ合い、昔の歌を合唱しました。良いんです。お互いが気持ち良ければ・・・。
それから、一・二回2人で会いました。もちろん、彼女は、すでにお孫さんも居て、生活していますか、手をつなぐのが精一杯。それでいいのです。私は、人妻には、手をださない。自分のポリシーだけは、守って互いの距離を大切にして、・・。
 そんなもんです。もう、50後半近くになって、「他人のしあわせ」を壊すほど、子供ではありません。二度彼女に花を贈ったのを覚えています。一度は、自分が学校で作っている、「リビングストーンデイジー」という花。もう一回は、「蘭」を送りました。
 今度、日本に帰った時、彼女と昔のことを語り合いたいものだ。彼女が迷惑でなかったら。
葛飾の火事からとんでもないことを思い出しました。
青春時代とは、淡いうつくしい「さくら」のような想い出の走馬燈のようなものです。
再見。