当時、確か国会では国土防災強靭策とやらで、予算をつけていて、建築関係に予算をばら撒くような事をやっていて、私は創価学会の地元の支部長に「やる事が違う!」と噛みつきましたが、支部長は「これが最善の策なんだ!」で譲らず平行線になった事を覚えています。
結果、除染作業にも怪しい業者が入り込んだり、また廃炉作業にも怪しい業者が入り込み、原発事故は利権の巣のようになっていましたよね。
またその後、この福島第一原発の事故の後始末もままならない状況にも関わらず、オリンピックに熱を上げ、東日本大震災の復興証として開催する。予算は既存の施設を流用するので安く出来るといい、いまは小泉純一郎氏の奥方になっている人が「お・も・て・な・し」なんてフレーズも流行りましたが、東京オリンピック開催に向けて、国家として走り始めました。
本来ならば国家規模で対応を進めなければならない廃炉にむけた対応を、一企業である東京電力に被せてね。
当然、国際的なイベントなので、国外からは福島第一原発の事が指摘されましたが、安倍元総理大臣は「アンダーコントロール」と言い切り、如何にも日本は原子力発電所の事故はコントロールされているとしていましたが、実際には原子炉がメルトダウンを既に起こしており、地下水が原発で汚染され海洋に流れ出てしまっている状況だと推察しています。以前には地中を凍らせて、この流れ出る地下水を止めようとしていましたが、これも失敗。何が「アンダーコントロール」なんだか、私にはさっぱりわかりません。
オリンピック予算も当初は数千億円規模と言っていたのに、既に一兆円を超えてしまい、利権化著しくなっていますが、そこへきて昨年からの新型コロナ禍です。本来ならば中止の意思表示をすべき処、恐らく様々な利権が蠢いており、止めることもままならない状況なんでしょう。
日本国内は今世紀初頭の小泉自公政権による規制改革もあって、貧富格差は激しくなり、富める者は富み、貧しい人はより貧しくなってきています。しかし社会はから騒ぎを止めない状況の中で、先の東日本大震災は国民にそれらを気付かせる意味があった様にも私は思ったのですが、現実にはより政治の世界の貧困さと、衆愚政治を加速しただけだった様に感じています。
今回、政府は汚染水の海洋投棄を決めましたが、この背景には廃炉作業にまだまだ時間がかかる見込みの中で、既に地上に置き場が無くなってきているという事情があっての事でしょう。そんな事は容易に想像がつく事です。では翻って日本はこの十年間、福島第一原発の事故に、一体どの様に向き合ってきたのでしょうか。そこを問わねばなりません。
何か数年前あたりから、既に東日本大震災やそれにより起きた福島第一原発の事故も「過去の出来事」の様な社会風情になっていませんか?
実は根本的な処は、何も解決すらしていないのに。マスコミも敢えてこの事への注意喚起をする報道はしていませんし、国民の多くも既に終わった事という意識でしかなかった。だから海洋投棄の決定という事態を招いたのではありませんかね?
麻生大臣あたりは「処理水は飲めるほど安全」といい、公明党山口代表は、当時、与党だった野党に「(当時)与党だった責任を」なんて発言してますが、まったくのお門違いな言動ばかりです。
この汚染水海洋投棄の事について、早速、中国や韓国は批判する発言をしてますが、これは今後の日本外交に於いても、大きなマイナスカードになることは間違いないでしょうね。だって海洋は他国との共有環境なんですからね。
まあ私を含めて、日本人は一体この十年間、何をやっていたのかという事です。でも今の日本社会には、そんか言論が一つも無いのが残念でなりません。