自燈明・法燈明の考察

今ある宗教は必要なのか


 さて、立正安国論について書き連ねている最中ですが、ちょっと考えていることを書いてきます。

 今の人類社会には数多の宗教が存在します。
 ここでいう宗教とは、ある精神的な指導者が居て、その指導者の教えを「教義」としてまとめ上げ、その教義を信奉する社会的な集団の事を指します。

 この宗教には幾つかの分類があって、大きく言えば一神教の宗教があって、その中には預言者がイエス・キリストであるという宗教のキリスト教と、マホメットが預言者であるとするイスラム教があります。そしてキリスト教にも例えばカソリックやプロテスタントがあったり、イスラム教においてもシーア派やスンニ派があります。また仏教でも南伝仏教(主に東南アジア方面に流布)と北伝仏教(主に中国から日本に流布)あって、例えば北伝仏教(大乗仏教)でも様々な宗派に分派しています。

 いま説明したのは三大宗教と言われるものですが、近年ではそれぞれの宗教や宗派にも様々な新興宗教も起きていたりしますので、いまの世界は様々な宗教が乱立している状況となっています。

 これは「教義」による分類ですが、それ以外にも分類する観点があると私は考えています。それは「カストディアン的な宗教(管理者的な宗教)」と「マーベリック的な宗教(異端的な宗教)」の2つです。

 カストディアン的な宗教とは、指導者が思想的に信者を扇動し、動機付けを行い、まるで放牧の羊を操る牧羊犬の様に振舞う宗教を言います。まさにこれは大衆(信者)を管理するには一番効率の良い宗教とも言えるでしょう。その宗教の中では個々の思索の深化は排除され、常に宗教的な指導者の「指導」に従う事を宗教的なモラルだと教えられています。
 一方のマーベリック的な宗教とは、教義を切っ掛けとして信者が常に内省的な思想を行い、個々の信者は社会生活の規範をそこから自分自身で導き出す宗教であり、そこには宗教という組織は「個人に対する助言者」としての位置付けに留まりますので、いわゆる教祖的な指導者は存在しないのです。

 仏教の始祖の釈迦が指向していたものは、ここでいう「マーベリック的な宗教」であり、だからこそ当時のインドでは「異端者」として仏教徒は捉えられていました。しかし今の仏教の大半は「僧侶」や「宗教的な指導者」を元にした「カストディアン的な宗教」となってしまっています。過去の天台大師(智顗)や日蓮の教相判釈の「五重の相対」でいう「内外相対」の内道と外道という分類は、まさにこのカストディアン的な宗教(外道)と、マーベリック的な宗教(内道)の分類に相当するのですが、悲しい事に、この教相判釈を学ぶ人でこれに気付く人はほぼ皆無です。

 思うにこれは私の想像でもあるのですが、キリスト教やイスラム教などの「ヤソ教」でも、同様な事があるのではないでしょうか。何を言いたいかと言えば、宗教の発端(原点)には常にマーベリック的な宗教的要素があったものが、組織化され年を経るごとにカストディアン的な宗教に変節をしていってしまうのではないでしょうか。
 キリスト教では「神智学」などがあり、そこには深い内省的な観点もあったりしますが、そこまで考えてキリスト教やイスラム教を信じている信者は居ないように思います。

 そう考えていくと、このマーベリック的な宗教となるのか、カストディアン的な宗教となるのかについては、宗教や教義はあまり関係なく、それに触れていく「人間」そのものに、その分類される要因はある様に思えます。

 宗教にハマる人(ハマるという表現が良いか悪いかはありますが)が、その切っ掛けとしてあるのは、人生に起きる様々な不如意な出来事にあります。それは「挫折」であったり「様々な苦しみや悩み」であったり、場合によっては「死」という根源的な問題と直面したりという出来事です。そこで自分以上の何かしらがあるのでは無いか、人智を超越した何かがあるのでは無いかと感じた時、そこに宗教が入り込んできて、その宗教を信じるという事が始まると思うのです。
 まあ中には親等が信じていた事から、それを自分自身で受け入れて宗教に入るという事もありますが、宗教に入る事とハマる事は次元が異なりますし、ハマる場合には何かしら個々に内面的な葛藤が起きてハマってしまうと思われます。

 そこで宗教の教義に触れ、内省的な思想の薫発(啓蒙と言っても良いでしょう)が行われれば良いのですが、宗教とは社会的な集団でもあり、そこには組織的な思惑もありますので、多くの宗教的な指導というのは組織に従順な事を大事なモラルだと教え込み、その際には多くの「奇跡的な体験」を利用します。いわゆる「功徳」とか「御利益」ですね。
 この「功徳」とか「御利益」といった、いわゆる「奇跡的な体験」というのは、人の心が起こす事象であり、何も特定の宗教により呼び起こされる事ではないのですが、とかく人は「体験」した事をまるまる信じてしまう傾向も強く、結果としてカストディアン的な宗教を無防備に受け入れてしまうのです。

 宗教の教義というのは、始祖の多くがマーベリック的な思想を持っている事から、そこには人の内面を掘り下げ、ここに「気づき」を与えるヒントが多くあります。しかし宗教というのは基本的に「組織」であり、そこには指導者も居れば組織的な既得権益もあるので、やはり組織的な発展や組織権益の保護という思惑も存在します。だから多くの宗教はマーベリック的な宗教に変質をしてしまいますし、その信者をも「導き、指導」という名目で管理する傾向が出てしまうのものです。

 これが今の宗教の姿では無いかと私は考えています。

 これまでの世界はそういう宗教でも、人々を誘導する事に一定の社会的使命もあったかもしれませんが、これからの世界は人類の種族としての存続が掛かる世界になってくると思います。現に気候変動の動きにしても、国際社会の動向にしても、そういった事が見え隠れしてきています。そういう時代にあって、もしかしたら宗教とは「レミングの集団自殺」の様な行動に人類を誘導する様な存在になりはしないでしょうか。いま大事なのは「内省的な思考」であり、本来であればマーベリック的な宗教が必要だと思うのですが、広く世の中を見ると殆どの宗教はカストディアン的な宗教となっています。

 その事から私は「今ある宗教は必要なのか」と思わざるを得ないのです。


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