果たして「私」とは如何なる存在なのか、そこの軸を持たない限り、これからの世界は今までの世界とは事なり、大きな変化に見舞われる世界になる事が想定され、やもすれば目先の事に振り回されてしまうように思うのです。だからこそ、自分自身という存在について的確に把握をしておく必要があると思うのです。
これは別の機会にも掘り下げてみたいと思っていますが、仏教ではこの世界は苦悩の世界であると説き、その苦悩については「四苦八苦」と説いています。このうち四苦とは「生・老・病・死」を言いますが、始めに「生(生苦)」が来ている事には、それなりに意味があると私は考えています。
「生苦」とは、生きている事自体の苦しみを言いますが、別の見方としては「この世界に生まれ出た事」自体の苦しみを指すと言われています。人はこの世界に産声を上げて出て来た時には、母胎の中とは違い、触れる空気、取り上げられる際に医者から触れられる事自体、苦しみとして感じていると言われています。そしてそんな世界(娑婆世界)に生まれ出てから成長する中で、人はまさに「生きる苦しみ」という事を感じ続けていきます。
だから一般的な仏教では、その「生きる苦しみ」を解決する為に、仏にすがる、悟りを開くという事を念頭に修行を行い、その仏に帰依して信仰する事を教えているのです。
しかしここで人は仏を求め、その仏の境地を目指し、修行をするという事では、人にとっての精神的な自立というのは困難になってしまうケースが多くあると思うのです。私は何もここで仏教を学び、修行をする事自体を否定するのではありません。ただ問題となるのは、その過程で宗教的なドグマに陥り、そこに執着し、さもその執着の先に「解脱」や「悟り」、また「絶対的な幸福境涯」というものを求めていては、それは宗教に依存する心を増長させては行きますが、精神的な自立を得る事は難しくなるのではないでしょうか。
妙法蓮華経とは大乗仏教の最高の経典と言われています。何故、この妙法蓮華経が最高の経典であるのか。それはそこで「久遠実成の釈尊」という事を示し、この仏教で求める最高の境涯である「仏」とは、何も目的や目指すべき理想の姿ではなく、各々が「心の本質」として既に具えている事を明かしたからに他ならない。私はその様に考えるのです。
目的や目指す存在としての「仏」ではなく、この世界に生まれ出た私達の「心の本質」としての「仏」。
実はそこにこそ、仏教の説く「苦悩の世界」に生きる事への解決が示されているのではないでしょうか。ただそれを理解する上でも、当然、仏教のそれぞれの教理というのは学ばなくてはいけないし、実体験として理解をしなければいけない。そういう事だと思うのです。
これに近い考え方としては「本覚思想」というものがあります。これを平たく言えば、人々は誰でも仏になれるということ、あるいは元から具わっている(悟っている)ことをいう。 主に天台宗を中心として仏教界全体に広まった思想と考えられ、今日では本覚思想、天台本覚思想とも称されているのです。
そしてこの「本覚思想」では、既に悟りを得ているのであるから、学びも不要で修行も不要という、極端な考え方もあるようです。
しかしそれは大きな間違えで、頭や言葉で理解する事と、実体験として認識する事には天地雲泥の差があります。私達は日々の生活の中で起きてくる、様々な苦悩を通して、実はこの「心の本質」としての「仏」への認識を深くし、自分自身の確信を深めていかなければなりません。だから本覚思想にある極端な考え方は、大いなる誤解でもあるのです。
つらつらと書き連ねてみましたが、最近の私はこの様な事を考えているのです。そしてこの思索については、これからも進めていきたいと考えています。