これは創価学会で新入会の人に、お題目と御本尊(文字曼荼羅)の事を説明するセリフです。だから新しく入った人は、大抵何かしらの目的を持っての事なので、一生懸命、勤行唱題をします。
でもどうなんでしょうか、この創価学会の指導とは、本当にあっているんでしょうか。誰もそこについて再考する人って居ません。多くはこの教えられた事を信じて自分の目的、例えば仕事や家庭の事、人間関係の事等が少しでも良くなればと、ひたすら勤行・唱題に励みます。すると中にはそれらの事が解決したり達成したりするので、この言葉の信用性が高まったりしていきました。
しかしそれは一部であり、多くは叶わなかったり、場合によっては悪化したりとします。すると結果として得られない事から、捨て去る人も居るわけですね。中には「自分の信心が間違えてる」とか悩んで、そこで心を余計に病んだりしたりもします。
私は最近思うわけなんです。この指導性は果たしてあっているのだろうかという事を。日蓮がお題目を唱えたのは、何も知らなくてもお題目を唱えたら、それで良かったのかという事を。
お題目に力がある。それは発音に意味があったのでしょうか。文字に意味があったのでしょうか。それとも人智を超えた、何か呪文の様な不可思議な力があるというのでしょうか。
もしお題目にマントラ(呪文)の様な力があり、それは発音や音の韻に意味があったのであれば、唱え方を徹底しなければなりません。しかしこの唱え方(発音の仕方)も創価学会等、信徒の中ではまちまちです。
「ナムミョウホウレンゲキョウ」
「ナンニョーホーネンネキョー」
「ナンミョーレンキョ」
「ナンモレンコ」
「ゲッキョゲッキョ」
もし発音に意味があるのであれば、これではNGです。そもそも日蓮が生きていた鎌倉時代と現代では、言葉のイントネーションが異なりますが、実は日蓮がどの様に発音していたのか、いまでは分かっていないと言います。
また日蓮正宗や創価学会では、それぞれが正しい信仰だと言いますが、お題目の文字やイントネーションは何ら変わりません。つまり身延山久遠寺の信徒が唱えるお題目も、日蓮正宗や創価学会が唱えるお題目も、共に「南無妙法蓮華経」であり、何ら変わるものではありません。
こんな事を言うと、例えば日蓮正宗では「御法主上人猊下様に伝わる血脈による違い」を言い、創価学会では「創価三代師弟の血脈」なんて事を言いますが、そもそも血脈という単語も、自分たちの正統性を主張する為の言葉であって、そんなモノが果たして個人の信仰という世界に影響を与えるのでしょうか。
恐らくそれは「私のやっている事は正しい」という、その思い込みのバックボーンになる程度の事でしょう。
最近になり私が思うのは、最低限、お題目の意義とか、その意義の上で唱える意味合いを信徒には教えるべきではないかという事です。そして各人がそれを理解して唱えるという事で、本来の意味に近づく事が出来るのでは無いかと思うのです。
どうも日蓮を信ずる人たちは、学ぶというか理解する為の事以前に、例えば選挙とか、組織拡大とか、そんな行動ばかりを重要視していき、この「学ぶ」という事を軽視している様に思えてなりません。
最近になり顕正会もそうですが、創価学会も「カルト」呼ばわりされる事も多いのですが、それはこの「学び」を軽視しているからではありませんか?
まあ学ぶ事を重視したら、それぞれの団体の職員幹部やお偉いさん達には都合が甚だ悪いのでしょうが、やはり自分の行う行為(この場合には勤行・唱題)には、どんな意義があって、本来は何を目的にしているのか。そういう事は理解して行うべきだと思いませんか?
単に祈祷師まがいの人生を送りたいのであれば、それは必要ないかもしれませんが、人生を豊かに意味あるモノにする為の信仰をするのであれば、それは最低限必要だと思うんですけどね。