自燈明・法燈明の考察

宗教は不要と思う事

 まもなくゴールデンウィークに入りますが、国内では「変異ウィルス」とやらが、大きな話題になっています。そもそも昔からウィルスの変異というのはあり得る話であり、本来であれば織り込み済みで、特段騒ぐ事ではなく、淡々と対応すべきなのですが、マスコミ含めて騒いでいるのは滑稽でもあります。新型コロナウィルスは風邪に親しいものなので、どうすれば蔓延しないかは自明の理であり、本来は政府にしてもしっかりと情報提供を行い、それを受け取る国民側も落ち着いてしっかりと対応すれば良いとおもうのですが、そこが社会で情報のサイトカインストームを起こしている気がしてなりません。

 ウィズ・コロナなんですから、可能な限り賢明に生活をして行きたいものですね。

 さて、今日のお題です。
 私は二十歳の頃から四半世紀近くの間、創価学会の中で活動を続けてきました。そして世界の平和についても、創価学会の思想を広める事で実現できると本気で信じていました。

 しかし、いざ創価学会から距離を置き、人類の歴史やそこに関わる宗教の事について調べていくと、人類の歴史の中で、実は宗教というのに大きな問題があると考えるようになりました。

宗教の定義
 ここでいう宗教とは何か。この定義について少しここで話をしておきたいと思います。
 宗教とは、ある思想家の教え(教義)が体系化され、その教えを組織的に信じるという事であり、その信じる社会集団の事を指しています。今の人類社会には「三大宗教」というのが主軸にあり、キリスト教やイスラム教、そして仏教というのがありますが、それぞれの宗教にはさらに分派して宗派や教団が存在し、それぞれが合同したり半目したりしています。例えばキリスト教だから一枚岩という訳ではありません。これはイスラム教や仏教においても同様な事は周知の事実です。

 各宗教では教義を文字としてまとめられています。例えばキリスト教では新約聖書というのがあり、イスラム教ではコーラン、仏教では経典等によって教義がまとめられています。しかしながら、ここに大きな問題が隠れているのです。
 その問題とは、人の思考とはけして二次元的なもので表現する事が出来ないと言う事です。各教義をまとめている文字とは、もともと言葉を記号化したものです。各宗教の始祖は対話で宗教を弘めてきました。そこには時々の状況、表情、声のイントネーション等、記号では表せない要素を加味してお互いの意思を伝達していましたが、文字とはそれの言語のみを記号化したもので、二次元的な要素の媒体です。つまり対話で付加的につくものが無く、声を記号化した情報しか伝達する事が出来ません。
 人の思考とは空間プラス時間軸もあるので、それを考えた時には極めて文字とは伝達するには機能が不足した媒体であり、この文字だけで全ての真意を伝達する事は不可能と言っても良いと思うのです。

 またもう一つの問題があります。それは人間の中にはどうしても「聖(ひじり)」を求めてしまうという傾向が強くあります。そしてこの聖に対して、人々は依存し、救いを求めてしまいます。私はキリスト教やイスラム教の細かい事は解りませんが、仏教に於いては例えばお釈迦様が神通力を以て、人々を救うという事ではなく、一人ひとりが自分の心と対面する事で、様々な問題を乗り越えていくという事を求めています。釈迦は対話の達人と言われていましたが、その言葉の裏にはそういう事が隠されているのです。
 そして恐らくキリスト教にしても、イスラム教にしても、元々はそれに近しい思想の傾向性というのがあったのでは無いでしょうか。

 こういった事から、人は宗教に対して依存心を強めてしまうと言う事はないでしょうか。そして結果としてそれは、宗教の上層部、これはいわゆる聖職者であったり、宗教の指導者層に対して、心を従属させてしまうという事が起きている。私はその様に感じているのです。

 中世ヨーロッパの魔女狩りしかり、異端教徒の迫害しかり。これは仏教においても同様で、仏教僧が宗教的権威を笠に着て、人々を扇動した事は歴史の上では数知れずあった事です。

 私は社会集団としての宗教以前に、人の内面を思う心、これを信仰心と私は呼んでいますが、これは人生を生きる上で必要な事だと考えています。そしてこの人の内面の信仰心を捉える切っ掛けとして宗教とは一役買う存在ではありますが、それを切っ掛けとして組織に従属し、自分の内面を軽んじたり、見なくなってしまう様な宗教であれば、それは人にとって百害あって一利なしだと考えています。

 かのカール・マルクスが「宗教はアヘンである」という言葉は、こういった宗教に対する人間の持つ脆弱性、そしてそれを聖職者連中が利用してきた歴史を見て言った言葉ではないでしょうか。

 そもそもある思想家が居たとして、そこに教えを請うたとします。そしてその教えから得るものは、十人十色、百人百様ではないでしょうか。けして版木で印刷する様に、まったく同じ理解で同じ思想というのは、人間の間には存在しないと思うのです。これは各宗教において、教義の議論で組織的に分裂していくという事から、容易に推察できる事です。そしてこの分裂とは、組織的には相容れない事かもしれませんが、思想面としては、それにより教義の展開が広がるという事もあります。仏教では釈迦滅後に部派仏教が生まれましたが、この部派仏教の先に大乗仏教が存在した事を見れば、その事が理解できる事でしょう。

◆宗教と信仰、そして人生
 私にとって、創価学会というのは、仏教を学ぶ切っ掛けを与えてくれた宗教でした。しかしその宗教が人を縛り付けるばかりではなく、思考を停止させ、あまつさえ日本の政治にマイナス面が多くあると理解出来た時点で、その役割は私の上では終了しました。そしてそこから信仰という事を考え、自分の限られた時間の人生に対して、如何に有意義な生き方が出来るのか、そこを考えていく事、そして必要な取り組みを行う事が大事だと思っています。

 しかし一方で、同じ様に創価学会の宗教としてのマイナス面に気付きながら、そこの指導者や教えられた事を鵜呑みにしたまま信じ続け、指導者や組織に従属している人も多くいます。

 こういった事は何も創価学会に限らず、世の中にある「宗教」全般にある姿であると思うのです。しかしそんなモノに縛られていたら、本来見えるものも見えなくなるし、自由をはく奪され続けても、それが自由であると誤解をしたままで人生終えてしまうのではないでしょうか。

 私は信仰は必要かと思いますが、宗教が不要だというのは、そういう観点から感じているのです。こういった事を少しは考えてみませんか?

 創価学会にしても、七百年以上前の鎌倉時代の僧侶の言葉や、昭和時代の指導者の言葉に縛られていては、この二十一世紀も半ばを迎える時代を生きて行くには、窮屈な事ばかりだと思いますよ。



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