将門の首塚といえば、古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖が入り混じった土地であり、関東大震災後には、大蔵省の仮庁舎を建てようとした時、工事関係者や省職員等に不審死が続き、第二次世界大戦後にはGHQが丸の内の区画整理の為に、この地を撤去しようとして、同じく不審な事故が多発、計画を取り止めた場所です。
いわゆる「曰く付き」の土地なのですが、大丈夫なのでしょうか。とても気になる処です。
さて、こういう事について、私は創価学会で活動していた頃は、あまり気にも止めませんでした。それはこれは諸天善神やその一つであり、日蓮大聖人の仏法に因らなければ、所詮は謗法の輩の類の話してある。そんな認識でいましたから。
でもいざ創価学会の活動から離れ、日本の文化や歴史について少し振り返りをすると、そんな単純では無かった事を知りました。
私が思うに日本とは、その基本にあるのはアニミズム(精霊信仰)であり、やはり多神教の民族であると言う事。そしてそんな民族性を理解しないと、日本人の文化は判らない事が多くありそうです。
よく町中を散歩してみると、あちらこちらに祠があったり、神社があったりします。そしてそれは日本人の心の奥底に実はつながるモノが有るのではないでしょうか。
日蓮はこの様な日本人の心の奥底にあるものを、天神地祇と呼んでけして否定はしていませんでした。日蓮が立正安国論で語ったのは、法華経を中心とした仏教でなけれは、この天神地祇も威光を無くし、結果としては国が衰退して滅んでしまうという事なのです。
この考え方は、まさに鎮護国家の仏教の考え方なのですが、日蓮はその思想の元で、国の繁栄・安泰を考えていたという事になります。
さてさて、では天神地祇とも言われる日本の「八百万の神」とは、如何なる存在なのでしょうか。これを考えるヒントとしては、以下の日蓮の言葉があります。
「今までは此の国の者ども法華経の御敵にはなさじと一子のあひにくの如く捨てかねておはせども霊山の起請のおそろしさに社を焼き払いて天に上らせ給いぬ、さはあれども身命をおしまぬ法華経の行者あれば其の頭には住むべし」
(新池御書)
つまり神天上の法門の法門と言い、謗法が過ぎれば、諸天善神は天上界に帰ると言われていても、法華経の行者の頭(こうべ)に住んでいるんだと言うのです。
つまるところ、もしかしたら天神地祇と言うような、日本人の思う神というのは、人々が心の中から作り出している存在という事ではないのでしょうか。だから人々の心の力が強ければ、この天神地祇というのも威光を増し、心の力が弱くなれば、威光を無くしていく。また暴走すれば怒りを増し、その働きは祟り神の様に振る舞いもする。
そんな存在なのかもしれませんね。
因みに今回の将門の首塚の、一時遷座にまつわる事ですが、その結果も日本人の心の在り方に依るのだとしたら、どんな事が起きるのでしょう。
もしかしたら日本人の心は、相当疲弊してますから、なーんにも起きないかもしれませんね。若しくは荒んでいるから、祟り神の働きが出ないとも限りません。
さて、皆さんはどの様に思われますか?