自燈明・法燈明の考察

立正安国論について【まとめ①】

 私が創価学会の活動を離れ、今まで自分が学んできた教えの振り返りとして、初めに取り組んだのがこの立正安国論でした。

 内容としてはここまで書いてきたように、その根っこにあったのが「鎮護国家の仏教」という、いわば天平時代からの思想が基本となったもので、私が思うにやはりこの二十一世紀の時代に、そのままこの論文を解釈した処で、あまり意味を為さないのではないかと思いました。

 こんな事を書くと、創価学会や宗門側の人達からは「御本仏のお言葉を軽視するとは驕慢謗法で、頭破作七分の証」なんて言われるんでしょうが、そんな事はあまり気になりません。それよりも単に仏教の一宗派や一団体の思想が広まることで、この人類社会が平和になり、いま人類の抱える問題を安易に変えられると考えている方が危険なのではありませんか?

呪術や祈祷なんかで世界は変わらない
 鎮護国家の仏教では、仏教の持つ功力、これはまあ経典の持つ功力と言っても良いかもしれませんが、それによって朝廷やこの日本という国を守ろうと考えていました。だから仁王会や最勝会という法会を僧侶は開き、そこで読経し儀式を執り行い、必死に祈念したのでしょう。

 しかし日蓮はこれら法会の中心として使用していた経典を、法華経を中心とした仏教の中の説明書として引用しまし、それによって法華経こそが鎮護国家の教えだと宣揚しました。
 ただしこれだけでは従来の仁王経や金明光経を法華経に置き換えたという事でしかありません。では仁王経や金明光経よりも、法華経は読誦する事や講義する事で功力が違うという事なのでしょうか。それでは基本的に従来の鎮護国家の仏教の延長でしかなくなってしまいます。果たしてそれで国家が安寧になりうるのか、私は正直、大きな疑問を持ってしまいます。

 単に法華経を読む事や、尊重し敬う事で国が変わるのであれば、何故、創価学会が戦後にこれだけ組織が巨大化し、文字曼荼羅に向い法華経を読む人が多くなったにも関わらず、これだけ日本という国、また広くは人類社会に混乱が止まずに起きているのか。
 宗門に至っては創価学会が出現する前には、富士の麓にある山寺に長年の間、甘んじているだけだったではありませんか。

 正直、宗教的な儀式や形式を幾ら広めようと、そんな事で日本や世界が平和で安寧な社会に変わると私は思えません。何故なら日蓮門下のこれまでの歴史を見ても、その事は明らかではありませんか。

「心地観経に曰く「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」等云云」
(開目抄下)

 大石寺や創価学会の人達は、この日蓮の開目抄の言葉をもう一度噛みしめてみるべきなのです。

◆神天上の法門からの考察
 では日蓮の立正安国論で求めた事が、全く現代に無駄な事であったのかというと、私はそうは思えません。日蓮が主張した事を換骨奪胎して現代に読み返す事により、少しでも今の人類社会を良くして行ける可能性があると思います。そしてそのキーワードは「神天上の法門」にあると私は考えました。

 「神天上の法門」とは、その根拠になるものとして立正安国論には以下の言葉があります。

「金光明経に云く「其の国土に於て此の経有りと雖も未だ甞て流布せしめず捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず亦供養し尊重し讃歎せず四部の衆持経の人を見て亦復た尊重し乃至供養すること能わず、遂に我れ等及び余の眷属無量の諸天をして此の甚深の妙法を聞くことを得ざらしめ甘露の味に背き正法の流を失い威光及以び勢力有ること無からしむ、悪趣を増長し人天を損減し生死の河に墜ちて涅槃の路に乖かん、世尊我等四王並びに諸の眷属及び薬叉等斯くの如き事を見て其の国土を捨てて擁護の心無けん、但だ我等のみ是の王を捨棄するに非ず必ず無量の国土を守護する諸天善神有らんも皆悉く捨去せん、既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし、」

 ここでは金明光経を日蓮が引用して語っています。日蓮の解釈によれば「此の経」とは法華経になりますが、その法華経を尊重せず、広めもせずに捨て去る様な心を人々が持ち、その国の多くの人が同じ様に法華経を捨てる心を持つようになった時、諸天善神は国土を捨てて、その国の人々も捨て去ると述べています。そしてその結果、その国には様々な災害が襲い掛かり国として存在できなくなるとあります。

 これが「神天上の法門」です。

 ここで考えなければならないのが、「諸天善神」とは一体どの様な存在なのでしょうか。
 諸天善神とは大梵天王であったり、帝釈天王であったり、大日天王、大月天王、大明星天王も居たりします。日本由来の諸天善神は天照大神であり、八幡大菩薩も諸天善神と呼ばれています。

 この諸天善神の名前は、外界の働きとして見える時、そこには様々な名前を付けて、人々はそれを神々として尊んできました。しかし日蓮はこの諸天善神について以下の様にも述べています。

「今までは此の国の者ども法華経の御敵にはなさじと一子のあひにくの如く捨てかねておはせども霊山の起請のおそろしさに社を焼き払いて天に上らせ給いぬ、さはあれども身命をおしまぬ法華経の行者あれば其の頭には住むべし」
(新池御書)

 ここで日蓮は神天上の法門で天上に帰ってしまった諸天善神も、命惜しまぬ法華経の行者が居れば、その頭に住んでいると言っています。私はここから思った事ですが、実は諸天善神とは人の心の中にある「善性」を指すのでは無いでしょうか。この「善性」とは、例えば他者に対する思いやりかもしれません。またその為の智慧の心や行動する心なのかもしれません。兎に角、他者や社会など、公共性を重んじ多様性を持ち他者を受け入れる心と言う事も出来るかもしれません。

 この人の心の持つ「善性」が、外界に様々な現象として出現した姿を、人々は諸天善神として呼んだという事ではないでしょうか。

 だから先の金明光経では、続けて以下の事が書かれていると思うのです。

「一切の人衆皆善心無く唯繋縛殺害瞋諍のみ有つて互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん」

 ここで「一切の人衆皆善心無く」とありますが、これは当に諸天善神が国を捨て去った後の事であり、まさに「諸天善神=人の心の善性」という事を指し示しているのではないでしょうか。

 ではこの人の心の中にある「善性」と、法華経がどの様に結びつくというのか。そこについては、次の回で説明をしてみたいと思います。


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