またマニアックな記事を、、、。
その様に思われる方も居ると思いますが、侮るなかれ。中身は中々読み応えのあるものでして、あっという間に引き込まれてしまいました。
このインタビュー記事について、ふとネット上で目に止まり、
読んでみようとググったのですが、解説されているブログは幾つかありましたが、殆どがビリーバー(信者)の様な記事ばかり。Kindle探すと紙媒体の本しかなかったので、更にググるとテキストが転がっていましたので、それを今、毎晩シコシコとGOOGLE翻訳を利用しながら読み進めています。
この内容は別に検証しながら、考察していきたいと思ってます。
さて、今回の記事はそんな事とは別に、最近思った事について書いていきます。お時間のある方はお付き合い下さい。
今度の衆議院議員総選挙で公明党は、広島の選挙区に斎藤副代表を擁立するかと言う様な記事がありました。しかし自民党広島県連の意見として、岸田自民党前政調会長は「お断りしている案件」と発言してました。広島と言えば河井杏里女史の件で揺れている地域です。そこに敢えて公明党が選挙区で出すというのは、かなりオカシナ話ですが、とうなんでしょうか。
客観的にみれば、公明党の動き、またそれを支援する創価学会の動きというのは実に滑稽な事なのですが、恐らく創価学会が方針として決定した事であれば、学会活動家は無私の行動で必死に動くでしょう。そして私を含め、創価学会のオカシサを理解した人達は、そんな創価学会の滑稽さを様々な形で皮肉ると思います。
しかしそんな中、創価学会のオカシサを理解している人達の中にも「祈りとして叶わざるなし」と「10時間唱題」をしたり、私達の方が池田先生の心と合っていると言い、今の創価学会を批判し、彼らが思っている悪を徹底して糾弾した信心の功徳(ご利益)を「これこそが正しさ故の実証だ!」と語る人達も居ます。
私の個人的な考えとして、これも違うと思うのですが、どうでしょうか。
そもそも創価学会が傍から見て、とてもマトモに思えないという行動の背景には、このブログでも幾度か書いていますが「信心の確信」という事があります。この信心の確信とは、端的に言えば、信心活動による功徳(ご利益)体験の事を言います。
要は創価学会の指導どおりに取り組み、悪と徹底した戦いの中で、祈りは必ず叶うという話で、創価学会にいる人達の幾人かはそんな体験を待ち合わせています。そんな信仰体験をした人達の多くはこう思います。
「やはり日蓮大聖人の仏法は凄い!」
「池田先生と心を合わせると、必ず結果が出る!」
そんな事で、より創価学会の組織活動にのめり込んでしまう事が、実は大きな問題なのかと思うのです。
創価学会の組織的なオカシサを目の当たりにして、そこから距離を置く人達の中にも、これに似たような考え方があると言うことは、実はその人達は思索がもう一段足りないと、私は常に思ってしまいます。何故なら創価学会を狂わしている思想をそのまま受け継ぎ、その上で創価学会が狂っているとか、オカシイなんて言うことは、トドのつまり問題の表面をみてはいますが、その奥の本質に対して理解を全くしていないと言うことでしょう。
このブログでは幾度か書きましたが、人の持ち合わせている能力として、思考を具現化するというのは、誰もが持ち合わせている事あり、なんら特別な事ではありません。ただその能力を引き出すキーワードが「信じる」という事もあって、そこで様々な宗教では「信仰体験」とか「奇跡」とも言うべきことが起こるのでしょう。
そして世の中の様々な宗教とは、そこを利用して信徒を自分達の組織の都合が良いように利用している訳であり、その信徒たちも喜んで組織に尽くし抜き、そればかりではなく他の人達を巻き込んだりするのではありませんか?
「私と共に幸せになりましょうよ!」なんてね。
前にも書きましたが、日蓮は仏教に正しさを求め、その正しさを判断する際に「利根通力には依るべからず」と、あくまでも理性的で合理的な判断を重要視していました。日蓮が開目抄で語っているのも、信じられない様な奇跡的な現象を起こす、婆羅門の仙人を「生死の因果を知らない赤子」だとも指摘していました。
要は思考が環境を動かすというのは、人の心の働きに過ぎない。そしてその心とは揺れ動くものだから、そんな事を当てにしてはいけない、という事なのかと私は理解しています。
そんな視点からすると、今の創価学会は狂っているとか、信濃町は腐りきっていると指摘しながら、信心の実証だ、祈りは叶う、悪を責め抜くことは正しいだとか、師匠の心と合致なんて言っているのは、やはり思索が足りないと言う事だと、私は思っているのです。
そろそろ人類は、そんな宗教的な考え方から距離を置くべきではありませんかね?
全ては自身の心の働きであり、持ち合わせている能力なのだから、視点を変えて見る必要もあると思うんですけどね。