1853年7月8日(嘉永6年6月3日)17時にペリー率いるアメリカ東インド艦隊は浦賀沖に現れ停泊した。当時の日本人が見た船は、それまで訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは異なり、黒塗りの船体の外輪船で、帆以外にも蒸気機関で航行し、帆船を1隻づつ曳航しながら煙突からもうもうと黒煙を上げていたのである。この様子から日本人はこの船を「黒船」と呼んだ。
◆予告されていた来航
実はこのアメリカ東インド艦隊の来航については、約1年前の1852年7月21日(嘉永5年6月5日)に、長崎出島にあるオランダ商館の館長、ヤン・ドルケン・クルティウスから長崎奉行に「別段風説書」が提出され、そこに予告をされていたのである。
この書類ではアメリカが日本と条約締結を求めている事、そのために艦隊を派遣する事が記載されており、中国周辺にあるアメリカ軍艦5隻と、アメリカから4隻の艦名、そして司令官がオーリックがペリーに代わった事まで記載されていた。またそれだけでなく、その艦隊の搭載している兵器や兵員の数、そして出航は4月下旬である事まで書かれていた。
(長崎オランダ商館跡)
また同年6月25日には、オランダ領インド提督のパン・トゥイストから長崎奉行宛ての親書「大尊君長崎奉行様」が提出され、そこにはアメリカ使節派遣に対するオランダとしての推奨案が提出され、そこには次の様に書かれていた。
「長崎港では通商を許し、長崎への駐在公使は見を受け入れ商館建設を許す。外国人との交易は、江戸、京、大阪、堺、長崎の五か所の承認に限る」
これら親書には10項目の推奨案からなるもので、内容としては通商条約草案の様なものだった。またこの親書には1844年の親書のあとも開国されなかった事をオランダ国王が失望している事が書かれており、もしアメリカと戦争になれば、オランダにも影響が及び兼ねないという懸念も記されていた。
歴史の教科書などでは、アメリカ東インド艦隊が突然、浦賀沖に出現した様に紹介されているが、実は当時の幕府は既に1年前にこのアメリカのペリー来航については情報を得ていたのである。
◆予告された幕府の対応
オランダからの予告を受け取ったのは、老中首座の阿部正弘であった。老中とは幕府の中の最高職で、その筆頭は事実上の執政として国政を主導する立場である。夏頃に将軍に拝謁する譜代大名にこの予告を回覧し、海岸防禦御用掛という沿岸警備を担当する立場の人物にも意見を求めたが、「条約締結はすべきではない」という回答を得たの。またオランダからの親書を受け取った長崎奉行にも意見を求めたところ、オランダは信用すべきにあらずという意見もあった事から、幕府の対応としては三浦半島の防備を強化するために、川越藩・彦根藩の兵を増員する事に留めたのである。
またこの情報については幕府内でも奉行レベル(現在で言う政府高官にあたるか)にとどめ、来航が予測される浦賀の与力にも伝えられる事はなかった。
ただこのオランダからの予告について阿部正弘は、外様大名である島津斉彬には年末までに口頭で伝えた様で、斉彬は翌年になって、アメリカ東インド艦隊の琉球来航以降の動静を、阿部正弘に報告し、両者は危機感を共有したというが、これは幕府の中では少数派であった。
◆ペリー来航への幕府の対応
話を戻す。浦賀沖に来航したアメリカ東インド艦隊に対し、浦賀奉行の戸田氏栄は、艦隊旗艦のサスケハナに対して浦賀奉行の中島三郎助を派遣、ペリーの渡航の目的が、将軍に対してアメリカ合衆国大統領からの親書を渡す事が目的である事を把握した。この時、旗艦のサスケハナに乗艦するために、中島は「副奉行」という役回りを詐称したが、ペリー側では幕府内の階級が低すぎるとして親書を手渡す事を拒否、翌7月9日(嘉永6年6月4日)に、浦賀奉行の与力(補佐役)であった香山栄左衛門が浦賀奉行を詐称し乗艦、ブキャナン艦長とアダムス参謀長、またペリーの副官であったコンティ―と会見した。
会見の席上、ペリー側の態度は変わることなく、親書は最高位の役人にしか渡さないと撥ねつけ、香山は4日間の猶予を求めたが、ペリー側では3日間を猶予とし、もし相当の身分の役人を派遣しないのであれば、江戸湾を北上し、兵を率いて上陸、将軍に直接親書を手渡しする事になると恫喝してきたのである。またそればかりではなく、艦隊の各艦から1隻づつ武装した小型艇を出し、浦賀湾内を測定しはじめた。この行動は幕府側に威圧を与えるという効果をもたらした。これに対して浦賀奉行は抗議をしたが、ペリー側では鎖国体制下での不平等な国際関係(当時はオランダを主として交易していた)を排除する考えからだと述べ、案にアメリカは幕府に対して不平等な関係を強いる考えがある事を示したと言われている。
7月11日(嘉永6年6月6日)にペリーが測量艦艇を江戸湾内に20キロほど侵入させた。その護衛にはミシシッピ号を付け、恫喝する様な行動に出た。これら一連の行動は、幕府に対して大きな衝撃を与えた。この時、第12代将軍である徳川家慶は病床に伏せており、国家の重大事を決断できる状態ではなかった。老中首座にあった阿部正弘は「国書を受け取るぐらいであれば、仕方がない」との結論に達し、7月12日(嘉永6年6月7日)に浦賀奉行に対して親書を受領し、返事はオランダ商館館長を通じて伝達する旨を訓令し、対応にあたらせたのである。
(続く)