「この御本尊は祈りとして叶わざるなしの御本尊だから」
これは創価学会や顕正会でも言うのかな。恐らく近年の日蓮正宗でも言ってるのでしょうか。
日蓮が顕した文字曼荼羅を、その門下(特に大石寺系統)では御本尊と呼び、それに祈ると何でも叶うと言うような事を言ってます。私が若い頃、某宗教団体の幹部をしていた時にも会員からよく聞かれました。
「御本尊様に祈ると、何でも叶うと言いますが、自分は未だに祈りが叶わないのは何故なんでしょうか?」
これに対して幹部はだいたい以下の言葉を言います。
「広宣流布に関する祈りは叶う」
「井戸を掘り続けると同じく、継続する事が大事。必ず叶うから諦めない事だ」
「もっと戦う事が重要なんだ」
「信心の厚薄による」
まあ、有り体に言えば幹部もそこは解らないんですよね。だから紋切り型の答えになってしまうのです。では功徳とは何を言うのか、まずはそこから考えなければなりません。
「功徳とは六根清浄の果報なり」(御義口伝)
これは御義口伝にある事で、そもそも御義口伝という御書も、日蓮作ではなく後世に成立したというものと言われてますが、その指し示す言葉はわかり易いのでここでは引用します。
ここでは功徳を六根清浄と述べてます。では六根とは何かと言えば人間の感覚器官の根幹にある認識力の事を指します。眼根(見て認識する力)・耳根(聞いて認識する力)・鼻根(匂いを認識する力)・舌根(味覚を認識する力)・触根(肌触りを認識する力)・意根(五感を通して状況を認識する力)を六根と言いますが、これら認識力を偏りなく真っ直ぐに働かせる事を六根清浄と言うのです。
この事から功徳とは、端的に言えば自分自身をありのまま、認識し、そこに起きる物事を正確に認識出来る様になることと言ってもいいでしょう。
一方、宗教団体で教える功徳とは引用の仕方が間違えているのであり、自分の欲求の成就や、今の自分が生きやすい様な環境の変化等を功徳だと教えてますが、これらは功徳てはなくご利益ですね。
この根本的な間違いは何故起きているのか。そこには宗教団体それぞれの思惑もあるでしょうが、日蓮門下のうちで、大石寺系統で、この間違えを起こす根本的な理由には、私は堅樹院日寛師の教えが関係していると考えています。
まあこの辺りは、おいおい書いていく事としますが、この様に仏教本来いう処の功徳と、いま多くの宗教が語る功徳(ご利益)は違うものなのです。