中国皇帝、日本の天皇
2019.05.07 14:45:55 毎日経済
私的な席で日本天皇を「日王」と言う人をあまり見たことがない。そのまま天皇という。
天皇が王より高い呼称と認識するなら、そのように呼ばないだろう。日常で天皇はただ日本王を
意味する固有名詞として通用する。
ところが、もしある新聞が日王の代わりに天皇と書けば厳しいコメントが多数走るだろう。
口語と文語のこの心理的乖離をどのように理解すべきかよく分からない。天皇と書けば民族的
自尊心が傷つくという場合どうするのか。今日、韓国メディアがみな日王と書くのはその感情に
忠実な結果だ。ただし、その論理構造はとても堂々としているとは言えない。
中華主義が支配した近代以前、東アジアで皇帝を称することができる国は中国だけだった。
ただ日本だけが例外だった。日本は有史以来、自分たちの王を堂々と天皇と称した。
中国を相手にした外交文書にもそのように書いた。中華主義は東海を越えて日本に支配力を
及ぼせなかったので中国は対応できなかった。
これを特に目障りと考えたのは「小中華」を自任した朝鮮の知識人だった。海の彼方の未開な
種族が皇帝を僭称するとわなわな震えた。天皇、倭皇、倭王、国王、偽皇等、朝鮮時代の文献に
登場する多様な表現は当代知識人の複雑な心理を見せる。
新聞に天皇と書かない不文律の起源を遡れば結局中華主義に行き着く。
あるいは「なぜ、一方は王で一方は皇帝か」という万国平等精神であろう。すばらしい。
ところがこの主張が論理的に成立するためには中国に対しても同じようにすべきだ。中国皇帝、
例えば洪武帝、康熙帝、乾隆帝のような人々を洪武王、康熙王、乾隆王と変えて呼ばなければ
ならない。中国古代「三皇五帝」とは「三王五君」程度に呼ぶべきではないか。
中国皇帝は自然で、日本天皇は不自然ならそれは中世的世界観と何が違うのか。中華の本国、
中国さえ天皇を天皇と呼ぶ。私は日王呼称で中国人よりさらに中華を崇拝していた小中華の
卑屈さを感じる。
令和時代開幕が天皇を天皇と呼ぶ契機になったらというのが個人的意見だ。日本のためでなく、
私たちのために。「あなたの名前ならあなたの様に呼んであげる」この様なクールな心に克日は
自然に訪れる。