どんなミサイル防衛システムも、殺到する難民の前には無力
トランプ米大統領の日本訪問の結果として、日米は北朝鮮をめぐる状況に対して、軍事力で問題を解決することも
厭わない、と報じられ、防衛・エネルギー政策分野で多くの新規契約が結ばれた。トランプ氏は「私の日本訪問と安倍氏
との友情は、我々の偉大なる国に利益をもたらすだろう」と、お気に入りのツイッターで発言した。
しかし日本にとって事はそう単純ではない。
もし朝鮮半島が緊急に戦闘状態になれば、日本には戦火を逃れようとする人が殺到するだろう。そうなってもアメリカ製の
武器が日本を守ってくれるわけではない。NHKが13日に報じたところによると、日本の厚生労働省は、万が一有事が
起きて大量の難民が日本にやってきた場合に、保護した施設などで感染症が発生するおそれがあるとして、専門家による
研究班を立ち上げるとのことだ。また、13日午後に北朝鮮から南北軍事境界線を越えて北朝鮮兵士が韓国に亡命した。
この兵士は銃撃を受けて生死の境をさまよっているが、治療の過程で、兵士の体内に最大で27センチにもなる無数の
寄生虫がいることが明らかになった。治療にあたっている韓国の外科医は、このような寄生虫は見たことがないと話して
いる。
ロシア科学アカデミー極東研究所、日本研究センターのワレリー・キスタノフ所長は言う。
「北朝鮮の行動に対して、日本社会は恐怖を感じていますから、政府は事前の策を講じているのだと思います。
日本には難民を受け入れたという大きな経験はありませんが、グローバリゼーションの時代においては、世界規模の
カタストロフィーから身を隠すことはできません。ヨーロッパは近年、文字通り、難民の波に覆いつくされました。
もし北朝鮮の体制が崩壊すれば、日本ももしかすると同様の問題に直面するかもしれません。
軍事闘争が起きたとしたら、北朝鮮の人々は韓国や中国、ロシアといった、国境を接している国に逃げようとするで
しょう。しかし彼らにとって最も魅力的な国は、疑いなく日本なのです。すべての思いつく手段を用いてなんとかたどり
着こうとするでしょう。小船をこいで対馬(長崎県、玄界灘)に到着しようとするでしょうね。対馬は地中海の
ランペドゥーザ島のように、難民の中継点になってしまうでしょう」
日本ではあらかじめ準備すべき医薬品や医療機器が検討され、感染症を早期に特定するための医療体制が作られる見通し
だ。
しかし医療および人道的な問題のほかに、日本政府は国内に難民のふりをしたテロリストが入り込んでくるのを防がねば
ならない。この点を最初に指摘したのは麻生太郎氏である。麻生氏は今年9月、「武装難民かもしれない。警察で対応
するのか。自衛隊、防衛出動か。射殺ですか。真剣に考えなければならない」と発言した。
キスタノフ氏は「この状況はヨーロッパと変わりません。難民のふりをして破壊工作者が流れ着くかもしれない。
彼らは生命の危機にかかわる対象施設において破壊工作を行なうかもしれません。もし原発で何か起これば大惨事に
なります。ある程度のパニックはありますし、起こるかもしれない軍事衝突に向けてあらゆる基本的な準備をしておく
ことは、何も驚くべきことではありません」
しかしながら、朝鮮半島からの難民が日本を覆う前に、日本政府にとって一番大事なのは、韓国から逃げてくる日本人を
助けることだろう。現在約5万人の日本人が、韓国に居住し働いている。
麻生副総理の発言に対して
政府は14日、麻生太郎副総理兼財務相が9月の宇都宮市での講演で、北朝鮮から日本に武装難民が押し寄せた場合、「警察で対応するのか。
防衛出動か。射殺ですか」などと発言したことに関し、「有事の際に想定され得るさまざまな事態について、聴衆の問題意識を喚起する趣旨から
なされた」とする答弁書を閣議決定した。
2017.11.14 12:54 産経新聞
朝鮮半島からの難民流入はぞっとしますね。我が国に必ず災いをもたらします。現在の在日特亜民族を見れば判ります。
政府が危機管理としていろいろな想定をし、対策を打ち出すことは当たり前の事です。
たとえ可能性が低いことでも国民が危機意識を持つことは極めて重要です。
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1950年の朝鮮戦争勃発前、高い危機管理意識があった山口県。
朝鮮戦争直前「韓国の亡命政権、難民に備えよ」…国防意識高めた山口県 楽観する国とは別に情報収集
朝鮮戦争勃発前、「そのとき」に備えて現実的な対応に取り組んだ地方自治体がある。半島と地理的に近い山口県だ。韓国の李承晩政権の
日本亡命と難民流入対策として、独自に情報収集を進めていた。19日(2015年9月)に成立した安全保障関連法をめぐる情緒的な反対論
とは対極にある「今、目の前にある危機」に取り組んだ県の対応を、安保問題の専門家も注目する。
山口県が、国とは別に独自の情報収集に乗り出した直接のきっかけは、さきの大戦終了後、朝鮮半島からの密入国者が増えていたためだ。
むろん、戦後に建国した北朝鮮による、不穏な動きを探るのが最大の主眼であった。
「山口県史」によると、朝鮮半島の緊張の高まりに危機感を持った知事の田中龍夫が昭和22年、まず手をつけたのが、知事直轄組織の
「朝鮮情報室」の創設だった。36歳の若さで知事に就任した直後のことだった。
朝鮮総督府の勤務経験者ら朝鮮語に長けた人材を集め、中波と短波をラジオで傍受し翻訳した。田中はこうして得た情報を分析し「
朝鮮情報」という冊子にまとめ、首相の吉田茂ら閣僚に報告していた。
25年6月、ソ連軍の庇護下にあった金日成国家主席率いる北朝鮮軍が38度線を越えて南進する直前、「米軍の旗色が良くない。
このままでは、(韓国が負けて)いつ日本が北朝鮮から攻められるか分からない」との情報が入ってきた。
田中は吉田のほか、外相、法相ら複数の閣僚に情報を伝え、「なんとかしてほしい」と要請した。だが吉田からは、「余計なことを言う
な」と一蹴された。 その2日後、金日成軍が南に攻め入った。
吉田は田中の報告を聞く3日前、朝鮮半島の視察を終えたばかりの米国務長官顧問のダレス(後に米国務長官)と会談していた。
山口県史からは、この時の会談で、吉田が半島情勢を楽観視していた様子がうかがえる。
吉田は田中の“ご注進”に対し、「ダレスは『進駐米軍の士気は旺盛で、装備も充実だ。心配ない』といっていた」と怒った口調で
退けたという。
北朝鮮軍の南進に懐疑的だった吉田は、国家の専権事項である軍事・外交について、地方自治体が余計な口出しをすることに苛立ちを
示したとみられる。
だが、歴史が証明したのは、ダレスの楽観論ではなく、田中の情報が正しかった、ということだ。
戦局は悪化の一途をたどり、韓国の李承晩政権は北朝鮮軍に半島南端の釜山近郊まで追い詰められた。
田中の悪い予測が的中した。外務省から山口県に至急電報が入ったのだ。
「韓国政府が6万人の亡命政権を山口県に作ることを希望している」(山口県史)
田中は、「わが県民にも半月以上、米の配給が滞っている。朝鮮の仮政府受け入れなんて、とんでもない話である」とし、
李承晩大統領の亡命政権構想にNOを突き付けた。
目の前の危機
防衛研究所(東京都目黒区)の庄司潤一郎戦史研究センター長(57)によると、知事の田中に代表される山口県の危機意識は、
県の置かれた地理的特殊性と欧米列強と砲火を交えた歴史的な背景にある。
田中の時代より半世紀さかのぼる。
長州藩出身の山県有朋首相は、明治23年(1890年)の第1回帝国議会で朝鮮半島について、わが国の独立自衛のための
「利益線」として保護すると演説した。
山県の演説にみられるように、朝鮮半島がわが国の安全保障上の要衝であり、「朝鮮戦争は対岸の火事ではなく、『今そこにある危機』
との意識が、田中知事ら山口県人に脈々と引き継がれていた」と庄司氏は指摘する。
幕末、長州藩を舞台に起きた下関戦争(注)で近代的な装備を持つ欧米の連合艦隊に打ちのめされ砲台を占拠された苦い経験も手伝い、
対外情報には特に敏感になっていたようだ。
日本政府に対し、李承晩亡命政権の受け入れを拒否した田中だが、実は具体的な受け入れ準備も同時に進めていた。地方自治体の首長の
政治判断を超えたものだといえるが、難民流入と李承晩政権の亡命が現実に起こりうる可能性を否定できなかったからだ。
当時の緊迫した様子は米文書からもうかがえる。
「韓国首脳は絶望しており、大統領と内閣を亡命政府として日本に移す可能性について尋ねてきた」
「米国の外交関係」(国務省編)の「1950 Korea」などによると、開戦2日後の25年6月27日、ムチオ在韓米大使が、
アチソン国務長官にこう打電していた。亡命先には山口県のほか、米・ハワイも選択肢にあった。
山口県が作成した極秘文書「非常事態計画」によると、韓国人5万人を受け入れた場合の避難キャンプを山口県阿武(あぶ)町などに
作る計画を立てていたことが分かっている。
韓国「屈辱的報道」
米軍を中心とする国連軍の反攻で、韓国側は盛り返し、山口県への亡命が実現することはなかった。
だが、日米双方の物証にもかかわらず、韓国側では李承晩政権の日本亡命要請について「屈辱的」との受け止めが広がっている。
韓国テレビ「KBS(韓国放送公社)」が今年6月に李承晩政権の亡命構想を放送したところ、「屈辱的報道」との批判が起き、
KBS幹部が降格させられる事態に発展した。
韓国大手紙「ハンギョレ新聞」によると、韓国国内の保守系団体がKBS本社前で「李(承晩)大統領を卑怯な亡命企画者として人民裁判
にかけた」と抗議活動を行うなど、事実関係とは違う次元で波紋を広げている。
李承晩政権が山口県への亡命を検討した事実について庄司氏は、当時の戦況と国際情勢を総合的に判断すれば、「亡命することは恥ずべきことではなく、李承晩の権威を汚すものではない」と語った。(敬称略)
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下関戦争幕末の文久3(1863)年と同4(1864)年の前後2回にわたり、長州藩と英、仏、蘭、米の列強4国との間で起きた武力衝突。長州藩は大敗し、外国との通商に反対するのではなく、開国すべきだとの思想が広がり、後の明治維新につながった。
2015.9.19 20:48 http://www.sankei.com/west/news/150919/wst1509190081-n3.html