シュメールの暦は春分の頃の新月の直後を元日としていた。
シュメール文明とは縄文人の二至二分の暦の知識から始まっていたものだろう
農業暦としては太陽暦がまず必要であり、二至二分が基にされて、その後月の満ち欠けを観測して、月の暦を加え太陰暦としたものだろうと考える。
紀元前6世紀までは、春分の時期を正確に予測するため恒星 カペラの動きを観察していたという。ここで何故太陽を観測していないのかよく分らない。
シュメールの春分の知識は二至二分を太陽観測で求める知恵が無かったようだ。
そのため既存の暦を基にして、星の観測から春分を決めようとしていたと云うことになるのだろうか
二至二分の暦の縄文人の知識は、刻木または結縄で持っていたものと考える。
アメリカ大陸
メキシコにあるマヤ文明の遺跡 「カスティーヨ」
春分の日と秋分の日の日没時に、階段の西側にククルカンの胴体の影が現れる。
これは観測装置では無く、春分を知った上での完成形で、いずれも二至二分を基にしている。
どちらも縄文人がもたらした暦を基にしているので、時期は縄文中期頃、阿多カルデラ噴火から逃れて拡散したものだろう。
どちらにも太陽観測の歴史は見えないことから、縄文人が刻木または結縄などの方法で伝えたものと考える。
引用ーーーーーー
アステカ文明(1428年頃?1521年)以前のメソアメリカの古代文明を年表形式で作ってみました。これを見ますと、メソアメリカの文明群は、マヤ文明と非マヤ文明に分けられ、エジプトやインド、中国など、他の古代文明と異なり、中央集権とはならず、小さな文明が同時期に多中心性に発生して、時には融合したり離れたり、を繰り返していたようです。
小さな文明群が同時期に多中心性に発生
こうしたメソアメリカの文明群のあり方は、暦や天文学と言った技術の紀元を探るのを非常に困難にさせていると思われます。マヤの碑文には、Tikal(ティカル)、Calakmul(カラクムル)に代表される大小の王国が細かい戦いを繰り広げた歴史が残されており、なかなか統一した集権国家とはなっていなかったようです。そんな状態で、優れた暦や天文学が発達したのであろうか?、と疑問を持つのがむしろ当然であります。すると、そうした学問はマヤ文明が発生する前からあって、それが伝承されたのではないか?、とそんな疑問も起こってきているのが現実です。
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メキシコにあるマヤ文明の遺跡である「チチェン・イツァ」には、マヤの最高神ククルカンを祀った9段の階層からなるピラミッドである「カスティーヨ」があります。
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この「カスティーヨ」は、春分の日と秋分の日の日没時に、西から夕陽に照らされ階段の西側にククルカンの胴体の影が現れます。
ククルカンは蛇の姿をした神であり、カスティーヨにはその彫刻があるため、太陽光によってその影が現れるように造られているのです。
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