金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

ダイズ アズキの味

ダイズは
北杜市大泉町の天神遺跡出土の縄文前期土器内部からもダイズ圧痕が確認されている。
中期初頭五領ヶ台式
五領ヶ台式土器は、中期初頭、関東~中部地方の土器で、はなやかな勝坂式土器に先行する土器形式である。という
五領ヶ台式期から藤内式期の縄文土器片から複数のダイズ属のダイズ、ツルマメ、ササゲ属アズキ亜属の圧痕が確認された。
土器は中期中葉の藤内式、曽利Ⅱ式、勝坂Ⅰ式に属するものが出土している遺跡では
磨製石斧と農耕具としての打製石斧が目立っている。

              ヤブツルアズキの種 米粒に近い大きさ 小さい

アズキの野生種はヤブツルアズキで、むしろ小豆と比べて風味が強く、食味は悪くないようである。

ヤブツルアズキの種は大変小さいものなので、籠では目め漏れしてしまいそう、漏れないようにするために籠の目を粘土を付けて潰して漏れないような工夫があったのでは無いだろうか。そうした工夫から土器に発展したものなのか。
縄文早期前半からの出土が知られていますが、縄文中期中葉の藤内式期以降、大きな個体、栽培型アズキが顕在化してくる。

早期からの長い期間の品種改良を続けて、縄文中期中葉以降の縄文人はダイズやアズキを栽培・収穫し、主要食糧としてそれを食べていたことは確実のようです。

この時期、藤内式土器の一種である出産土器は、ポット型の土器の縁と土器の真ん中辺りに顔が付けられているのが特徴という土器が造られていた。出産土器は藤内式のみではなく、井戸尻式など他の種類の土器にも似たようなものがあります。
という
出産を示していると思われるこれらの土器は、豆類の農耕により食糧事情が安定して、子供が沢山生まれてくることを喜んでいたのだろう、それを記念して供献土器を造っていた、と考えて良いのでは無いだろうか。

それまでの土器とは大きく異なり、中期の土器は立派な浮彫が付く土器が造られており、活力が感じられるものが造られていた。
こうして供献土器を造り、農耕により食糧増産が出来て、集落社会が発展していることを祝っていたものだろうと思う。

因みに、コスタリカの食事では豆を使う料理があるそうで、これに近い食事が考えられるとも思う。

縄文中期の土器形式と編年
土器形式 新地平編年        今から×年前     紀元前×年
勝坂期 勝坂1式(貉沢期) 新地平5a~c期   5380~5320年前頃   3430-3370年頃
勝坂1式(新道式) 新地平6a~b期       5320~5280年前頃   3370-3330年頃
勝坂2式(藤内1式) 新地平7a~b期      5280~5220年前頃   3330-3270年頃
勝坂2式(藤内2式) 新地平8a~b期      5220~5080年前頃   3270-3130年頃
勝坂3式(井戸尻1式) 新地平9a期        5080~5000年前頃   3130-3050年頃
勝坂3式(井戸尻3式・終末) 新地平9b~c期   5000~4900年前頃   3050-2950年頃

図はお借りしました

引用ーーーーーーーーーーーーーー

2009年には縄文中期前葉から中葉にかけての住居跡から出土した五領ヶ台式期から藤内式期の縄文片から複数のダイズ属のダイズ、ツルマメ、ササゲ属アズキ亜属の圧痕が確認され、同時に行われた北杜市大泉村の天神遺跡出土の縄文前期土器内部からもダイズ圧痕が確認されている。

ダイズの栽培については、・・・縄文前期にまで遡る発見としてこれらの発見は縄文農耕の観点からも注目されている。また、2009年の報告においては縄文土器内部への意図的混入の可能性も指摘され、ダイズ圧痕の意義についても検討が行われている。
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その一つがリョクトウである。1970年代に鳥浜貝塚からリョクトウ(という説)が見つかったことが国際シンポジウムAffluent foragers(狩猟採集社会の成熟)で報告された。ところが、出版にあたってアメリカ側から「信じがたい」と強硬なクレームがついた。編者として困ってしまい、それでも何とか押し切ったのだが、後味の悪さが残った。
ところが、今日ではこれは野生種のヤブツルアズキであると落ち着いている。しかも、その分布域に入る日本でアズキが栽培化された可能性すらあるという。

さらにいえば、おなじ豆類のダイズも野生種のツルマメの栽培化が日本で始まったという説が出ている。これは圧痕レプリカ法(土器についた圧痕にシリコンを流し込んでサンプルを作成し、電子顕微鏡等で調べる)で明らかになったもので、混入でないことは確実である。

もう1つヒョウタンが思い浮かぶ。これも鳥浜貝塚から出たものだがアフリカ原産とされていたので、拡散の道が分からない。そこで、植物学者の中尾佐助先生に聞きにいったところ、「ヒョウタンは海にぷかぷか浮いてきたのかなー」といういかにも先生らしい答えだった。これについても、最近ではDNA分析が加わって東アジア原産の可能性もあるとされている。

こうみると5000年前までに日本で発見された栽培植物の数の多さに驚く。主なものでも
アサ、ウルシ、エゴマ、アブラナ、ゴボウ、アカザ、ヒエ、ダイズ、アズキ・・・。この時代すでに、立派な農耕文化があったと言ってよく、そう認定しないのを外国の考古学者は不思議がる。
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 さらに中部高地にマメ類栽培起源が求められていることにもふれておきたい。
 八ヶ岳山麓を含むこの地域の中期集落繁栄を支えた生業の一つに、マメ類栽培も加わることは研究成果の大きな点であろう。さらに中山氏は中部山岳地域から特にダイズ栽培種が周辺に広がるとする。この地域の中期集落の規模や分布密度から見るとその可能性はある。但しこの地域では中山氏を中心とした研究者が同様の視点で調査を続けており、マメ類圧痕にかかわる事例が増加していることも事実である。今後同程度での各地の調査事例増加が期待される。 
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ダイズの祖先野生種はツルマメですが、ツルマメの証拠は縄文時代草創期から中期、後期、晩期を通して発見されている、
しかもその間に、次第に大型化(栽培化症候群)していって、中期前葉に一挙に栽培化が顕在化するそうです。一方、アズキの野生種はヤブツルアズキで、縄文早期前半からの出土が知られていますが、縄文中期中葉の藤内式期以降、大きな個体、栽培型アズキが顕在化してくる。即ち、縄文中期中葉以降の縄文人はダイズもアズキを栽培・収穫し、それを食べていたことは確実です。
私の住んでいる町田から遠からぬ相模川の河川敷で野生のツルマメを見つけて、自宅庭で栽培し、ビールのつまみにしている方がいます。しかし、ダイズもアズキも主食にはならないのではないか、という偏見が頭を支配していると、肝心なことが見えなくなってしまいます。
焼畑を営んでいた静岡県榛原郡本川根町梅地長島地区の長島家では豆餅が食べられていまし
た。「ダイズを冷かしておいてから蒸かし、同時に別に餅をつく。餅がつけたところでダイズと砂糖と塩を入れ、こねあわせてカマボコ状にのして、乾いたところで切って焼いて食べる。「マメでくらすように」との伝承で、長島では、正月にこの豆餅を作る」(『焼畑民俗文化論』p.64)
アズキはもっと多彩です。アズキめし、アズキガキ(アズキ粉を熱湯でかいて食べる)、ヤキモチ、アズキ粥、アズキボートー(ぜんざい)、団子、まぶし粉などの食習慣が、山深い焼畑文化圏に昭和 30 年代まで存在していました(同上 pp.99-107)。
この『焼畑民俗文化論』には、「アズキの予祝」「アズキ播きと唄」「アズキの収穫祭」も紹介されています。例えば、「鳥取県八頭郡若桜町落折では、秋、アズキをサヤから落し終えた日、「アズキボーソー」と称してアズキ・ウルチ米のアズキ飯を炊き、塩味をつけて食べた」(同上pp.108-109)
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栽培種の小豆・野生種の小豆
現在、私たちが食べている小豆は長い年月をかけて品種改良されてきたものです。大納言や白小豆など小豆にはたくさんの種類がありますが、市場に出回っている小豆は基本的には栽培種(人間が栽培して利用しやすい特性に品種改良した種類)です。栽培種があれば当然、その祖先となる野生種も存在します。それが「ヤブツルアズキ」です。

ヤブツルアズキは日本、朝鮮半島、中国からヒマラヤにかけて分布する植物で、諸説あるものの栽培されている小豆の起源(祖先野生種)と言われています。一般的な小豆と比べると莢(さや)が黒く、種子が小粒なのが特徴です。さらに種子は黒っぽいまだら模様をしており「小豆は赤」というイメージと大きく異なります。

小豆と同じように種子を食べることができますが、種子が小粒なのと採集に手間がかかるため、ほとんど利用されていません。ほとんど見向きもされていないヤブツルアズキですが、実はその味には定評があります。地方によっては、食べるために育てている人もいます。
・・・収穫したヤブツルアズキを乾燥、仕分けしたのち、餡子(あんこ)をつくってみました。その味は「完全に餡子」……。一般的に売られている小豆の餡子とまったく遜色がありません。むしろ小豆と比べて風味が強く、やや上品な感じがします(※作り方による違いもあります)。誰も見向きもしない荒れ果てた休耕田でこれだけの食材が手に入るのはお得感満載です。探す手間、収穫する手間こそかかりますが、野生味のある小豆を堪能できます。ご興味のある方はヤブツルアズキを探して、ぜひその味を確かめてみてはいかがでしょうか?
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 物語性文様の典型は関東から中部山岳地帯に広がる中期中葉の勝坂式土器様式であり、更にその前後並びに隣接地帯の土器様式即ち十三菩提式・狢沢式・加曽利E式・曽利式や火焔土器・唐草文系土器様式その他である。

 これらの土器様式においては、縄文土器は・・・ 縄文人の観念を表現する媒体としての注目すべき機能を合わせ持つに至ったのである。

 一方では・・・ 大迎な突起や把手を付けたり、胴部や頸部などで極端に変化に富んだ屈曲をとらせたりするのである。
 つまり土器自体のかたちも又器面の文様モチーフと結んで特別の意味を持ち、やはり縄文人の観念を表現するものと考えられる。
 従って勝坂式における顔面把手や蛇形把手或いは火焔土器のいわゆる鶏頭冠などは決して単なる飾りではなく、縄文人の世界観そのものと理解すべきであろう。

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 野焼きや山焼きをしていたのであれば焼畑も存在したと考えるのは強引な推測かもしれない。しかし、これらの研究結果が示しているのは、集落の周辺地に焼畑に十分に利用できるような土地環境が、継続的かつ持続的に展開していたという可能性である。野焼きや山焼きによってもたらされた灰や炭は酸性土壌をアルカリ性に改良するだけでなく、カリウムと石灰分を含む肥料としても機能していたことは間違いないだろう。
縄文時代とは、世界に類を見ない豊かな狩猟採集の時代だったのではなく、様々な農耕技術を駆使した時代だった可能性が徐々に濃厚になってきている。はたして日本の考古学会は、この他分野からの問いかけに答えることができるのだろうか。

※焼畑農業 現代に知られている日本の焼畑農業ではヒエ・アワ・ソバ・ダイズ・アズキを中心にムギ・サトイモ・ダイコンなども加えた雑穀栽培型が一般的である。 焼畑の造成はキオロシと呼ばれる樹木の伐採作業から始められる。耕作地を更地にした後、しばらく乾燥させ火を入れる。その後に播種するが、1年目はソバ、2年目はアワ、といったように輪作される事が多い。耕作期間は3- 5年で、その後植林し、15 ? 20年間放置して地力を回復させる。(Wikipediaより)
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縄文土器を成形する際に粘土中に紛れ込んだダイズとコクゾウムシの痕跡が、縄文人は狩猟採集民という常識を覆したというのです。

「最近の我が国における古民族植物学の調査成果は、ダイズやアズキが縄文時代に栽培化したことを明らかにした。筆者らは、2007年11月、長崎県島原市大野原遺跡から出土した縄文時代後期中頃の太郎迫式土器の底部内面から検出した、カキの種子のような大きく扁平な圧痕が栽培ダイズであると発表した。それまでダイズは、農学や考古学においても、その起源地は東北アジアにあり、それが弥生時代になって稲作とともにやってきたと考えられていた」。

「北陸地方・中部地方・西関東地方のダイズやアズキの圧痕のサイズから見て、
縄文時代中期に大型化することから、縄文時代の前期の終わり頃には栽培が開始されていたようである。そして、
縄文時代中期末にはこれら地域で遺跡数が激減するため、ダイズやアズキの栽培が次第に西日本の方へ拡散していく様子をうかがうことができる」。縄文人たちは、私たちが考えていたのより古くから植物を栽培する術に長けた人々だったいうのです。

「マメ類のような一年草に限らず、クリやウルシなどの木本類に至るまで、多様な植物を操る栽培技術の高さと、栽培・管理植物が彼らの生活の中で果たした役割を重視して、縄文人を『狩猟・栽培民』と再定義したい」。

「米などの穀物につく害虫を貯穀害虫という。その代表格がコクゾウムシである」。

しかし、イネおよび稲作の受容時期は縄文時代後期までは遡らないことが研究者の間で定説となっています。それでは、縄文時代の遺跡から発見された縄文土器の圧痕コクゾウムシは、いったい何を食べていたのでしょうか。「彼ら(コクゾウムシ)の祖先の本来の生態、生育実験の結果、予想される縄文時代の乾燥貯蔵可能な食料などを総合的に判断すると、その加害対象物はクリやドングリであったと考えられる。それ以外にダイズやアズキ、またはササの実など、乾燥保存ができる食料も彼らの加害対象となっていた可能性がある」。
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ダイズ土器の発見
山梨県立博物館では、土器内部の植物圧痕を観察するレプリカ・セム法[2]により栽培植物の起源を明らかにする研究を行っているが、2007年には山梨県埋蔵文化財センターとの共同研究において、酒呑場遺跡の181号土坑から出土した縄文中期の蛇体把手付土器[3]の把手部分から栽培ダイズの圧痕が発見され、レプリカ・セム法による観察で栽培植物であると確認された。また、同様の手法で山梨県都留市の中谷遺跡から出土した縄文晩期前半の土器からは穀物害虫であるコクゾウムシが検出されている。

さらに2009年には縄文中期前葉から中葉にかけての住居跡から出土した五領ヶ台式期から藤内式期の縄文片から複数のダイズ属のダイズ、ツルマメ、ササゲ属アズキ亜属の圧痕が確認され、同時に行われた北杜市大泉村の天神遺跡出土の縄文前期土器内部からもダイズ圧痕が確認されている。

ダイズの栽培についてはこれまで弥生時代であるとされていたが近年は縄文時代後期の検出例があり、さらに縄文前期にまで遡る発見としてこれらの発見は縄文農耕の観点からも注目されている。また、2009年の報告においては縄文土器内部への意図的混入の可能性も指摘され、ダイズ圧痕の意義についても検討が行われている。
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(2)栽培型出現の背景
 かくして縄文時代にマメ栽培がはじまった事実と経過が解明されたのであり、しかも渡来ではなく列島の野生種からの展開が予測されたのであるが、そのプロセスについては、第6章で述べられる。中期初頭を画期とするがその要因として、縄文前期末から中期初頭の寒冷化・乾燥化という気候変動と打製石斧の増加による深耕などをあげる。つまり寒冷化により一時的に多くの野生種が減少する反面、人為的に選抜された種子が播種・育成されたボトルネック効果と説き、深耕と大型化との関わりについては南アジア例を取り上げ、それらが種子の大型化と一連の関連があったとみる。

 打製石斧の増加についてはすでに前期後半諸磯式期に確認できる。
さらにイノシシ飼養や土偶の五体化なども含め中央墓坑型環状集落の形成、遺跡の増加などの現象がみられるこの時期を、評者は中期に向かう大きな胎動期とみている。しかし栽培型マメ類はまだこの時期には確認されておらず、期待のみ残る。
 なお中山氏が大型化原因の一つとして考えた、「異なる地域のダイズ属が交配することによってさまざまな特徴をもった雑種が生じ、その中から有用な形態が選抜され固定化されていった」ことは大変重要かと思われる。というのも前期終末から中期初頭は人の交流が実に活発化した時代である。
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ところが、北日本には、佐々木さんの予想をはるかにさかのぼる縄文時代早期の段階から多数の栽培植物が発見されている。これは北海道グループによる追跡の成果で、特にヒエは早期からあらわれ、住居跡(炉の周辺)から多数の種子が発見されていることからみて利用されていたのは確実だが、時代の経過とともに粒が大きくなることから、野性のイヌビエが栽培種(縄文ビエ)に選抜されていったと考えられるという。

また、縄文時代前期に関東から中部にかけてオオムギがあらわれ、中期にはその例数が増える。ソバも早く、前期に北海道、中期には北陸にひろがる。そして三者とも後期以降は全国的に分布するようになる。エゴマも早期の発見例があり、中期になると関東・中部地方を中心に濃密に分布している。これは、クリ栽培と連動しているのではないか。

蔬菜類(そさいるい)としては、ヒョウタン、ウリ、マメ類、ゴボウ、アブラナが前期からあらわれることは無視できない。最近では、アズキではヤブツルアズキ、ダイズではツルマメという野生種が栽培化された可能性が報告されている。他に、アサ、ウルシなどの食料ではない栽培植物もある。これらのデータは縄文農耕の開始や拡散が複雑な様相を持つことを伺わせるのである。
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 前期~中期には主に東日本で集落の更なる大型化が進む。有名な青森の三内丸山遺跡もこの時期の遺跡だ。三内丸山遺跡の集落周辺にはクリの木のみの林が形成されていたが、このような植生は自然には存在しないので、クリ林を管理する何らかの働きかけがなされていたと考えられる。
実際に集落が廃絶するとクリ林はナラ林にとって代わられている。他にもこの時期の遺跡にはダイズ、アズキ、エゴマ、シソなどが栽培されていた痕跡のみつかるものがある。これらを縄文時代の農耕とする意見も強いが、人々の生活を変え縄文文化を農耕文化に変えてしまうようなボリュームのものではなかったようだ。
 環状集落などの大型集落や大型の貝塚など、定住が進むことで人々の生活は複雑化してゆく。大型集落の周囲に小型の集落があるなど、集落間での分業を推測させる証拠も増えてくる。
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 前期~中期には主に東日本で集落の更なる大型化が進む。有名な青森の三内丸山遺跡もこの時期の遺跡だ。三内丸山遺跡の集落周辺にはクリの木のみの林が形成されていたが、このような植生は自然には存在しないので、クリ林を管理する何らかの働きかけがなされていたと考えられる。実際に集落が廃絶するとクリ林はナラ林にとって代わられている。他にもこの時期の遺跡にはダイズ、アズキ、エゴマ、シソなどが栽培されていた痕跡のみつかるものがある。これらを縄文時代の農耕とする意見も強いが、人々の生活を変え縄文文化を農耕文化に変えてしまうようなボリュームのものではなかったようだ。
 環状集落などの大型集落や大型の貝塚など、定住が進むことで人々の生活は複雑化してゆく。大型集落の周囲に小型の集落があるなど、集落間での分業を推測させる証拠も増えてくる。
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 レプリカ法で数々の実績をあげ続けている熊本大学の小畑弘己教授はその著書「タネをまく縄文人」でこう述べている。

 「北陸地方・中部地方・西関東地方のダイズやアズキの圧痕のサイズから見て、縄文時代中期に大型化することから、縄文時代前期の終わりごろに栽培が開始され、中期には大規模な定住集落が中部地方と西関東地方を中心に展開する。やがて縄文時代中期末には遺跡数が減少し、規模も小規模になるが、その頃から徐々に九州に向かって西日本に大豆が展開し始める。(一部要約」
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 9│不動堂遺跡出土ダイズ属種子の圧痕のある土器 (朝日町教育委員会所蔵)
縄文土器に残された圧痕からは、タネなどの痕跡も見つかります。不動堂遺跡の土器か
らは、圧痕レプリカ法(丑野・田川 1991)という手法によって、ダイズ属の種子【写真9】や
シソ属の果実など6点の種実圧痕が見つかりました(山本・佐々木 2018、川端 2018)。
また、下山新遺跡の土器の圧痕レプリカをデジタルマイクロスコープで観察したところ、ササゲ属
アズキ亜属の種子【写真 10】との所見が得られました(1)。このように、縄文土器を調べる
ことで、朝日町の縄文時代の植物のことが少しずつわかってきました。
 これらのことが教えてくれるのは、縄文人は植物を巧みに扱い、様々なことに利用して
いたということです。しかし、まだわからないことも残されています。たとえば、縄文土
器に植物のタネが入っていたことは、土器作りの現場にタネがあったためと考えられます
が、それがどのような状況なのかは明らかになっていません。
そこで、まいぶんKAN では、縄文時代の植物利用を身近に感じていただけるように、
縄文ガーデン(2)を作り、植物を使った体験を行っています【写真 13】。植物の生育にはサ
イクルがあります。花や実がある時だけではなく、一年を通じて縄文人と同じ気持ちで植
物とふれあってみませんか。
(1)資料の抽出及びレプリカの採取は川端典子が行い、同定は中山誠二が行った。資料はまいぶんKAN にある。
(2)まいぶん KAN の前庭に作成した、野生アズキ、エゴマ、カラムシなどを植えた庭。種まきワークショップ、収穫体験、草の編物体験などを行っている。
※資料番号はP7 資料一覧の番号に一致する。
10│下山新遺跡出土ササゲ属アズキ亜属種子の圧痕土器
  (朝日町教育委員会所蔵)
11│植物繊維のサンプル
  (左からカラムシ編物 2 点、カラムシ外皮除去、カラムシ外皮付き、
アカソ)
12│植物のヒゴサンプル
  (左からヒノキテープの網代編み、マタタビツル)
13│縄文ガーデンのエゴマ種まきワークショップ
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まず初めはコスタリカの国民的朝食、Gallo pinto(ガジョピント)です。
黒や赤の豆とお米を玉ねぎやパプリカと炒めたピラフのようなものと、ソーセージ、目玉焼き、トーストがセットになっています。各家庭やお店によって味付けや見た目も変わるようです。お店だと大体300円前後で食べることができます。コスタリカの料理は基本的に塩がメインの味付けですが、日本にはない味付けなので、この味と同じ!と分かりやすく伝えることができません。。ですが、スパイスが効きすぎるなどの嫌なクセはないので、日本人にも親しみやすい味だと思います。
ガジョピントを始め、コスタリカでの一般的な食事では、お米と煮込んだ豆、お肉や野菜を一つのプレートにのせたものが多いです。


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