縄文時代早期とはどのような時代だったのか、その指標から見えるもの
インターネットに出されている情報から見て、草創期から早期へは、どのような変化があったものと考古学は見ているのだろうか。前期にどのように連続しているのか。
その後次のような説明があることを見つけた。
縄文早期には定住集落が登場した他、
本格的な漁業の開始、
関東における外洋航行の開始など新たな文化要素が付け加わった。
最も古い定住集落が発見されているのが九州南部の上野原遺跡や金峰町の遺跡で、およそ1万1000年前に季節的な定住が始まり、1万年ほど前に通年の定住も開始されたと推測されている。
定住が開始された理由としては、それまで縄文人集団が定住を避けていた理由、すなわち食料の確保や廃棄物問題、死生観上の要請などが定住によっても解決出来るようになったためではないかと見られる[22]。植生面から見ると、縄文早期前半は照葉樹林帯は九州や四国の沿岸部および関東以西の太平洋沿岸部に限られており、それ以外の地域では落葉樹が優勢であった。
ということのようである。
定住が始まった
巨大集団で定住を始めた
土器編年の縄文早期を縄文文化が完成に向かう時期とする
遺跡が急増し竪穴住居祉が増え土器出土量も増加する。
環状集落が出来てきた
石器構成に打製石斧、敲石、磨石、石皿などの植物質食料と関係する器種が増加する
多数出土した打製石斧 農耕道具
農耕が始まった
ダイズやアズキは、縄文時代早創期~早期には利用が始まっている
穀物としてヒエ、ダイズ、アズキが耕作されていた
シソ・エゴマは、早期から耕作していた
貝塚が形成されている 貝類の採集
縄文人が貝類を食糧資源・装飾品の原料として採取するようになったのは縄文早期前半で、代表的な遺跡として横須賀市の夏島貝塚が挙げられる。
縄文早期の半ばには瀬戸内海沿岸や東北地方でも貝塚が形成されるようになる。採取対象は当初は河口等の汽水域に生息するヤマトシジミであったが、やがて内湾干潟の牡蠣礁で得られるカキや、やはり内湾の軟泥干潟から容易に得られるハイガイなどにその中心は移る。
海、川、陸に生息する多様な植物、動物を食料源とする縄文文化の特徴的な、多角的な生業へと変化している
装身具が増加した
土器に縄文が付けられるようになった
先端が尖った尖底(せんてい)深鉢土器になった
波状突起口縁の土器が作られた
最古の壷形土器
万能ナイフと見られる石器が現れた
多種・多様な石器を製作して,用途による使い分けをする,高度な技術をもちいる
土偶は女性の生殖力・繁殖力・豊作を象徴する祭祀の要具らしく、
世界原始農耕社会に共通する遺物で、農産物の豊饒を祈るのにも関係がある。
日本の縄文社会が、農耕経済段階にあった
早期末から 前期初頭には、定住が確立し集落の周りに貝塚が形成され、大規模な捨て場が形成される
鹿児島で旧石器時代(縄文早期)の住居跡見つかる。
日本最古の住居跡が鹿児島県指宿市で発見された。世界でも最古か?
9千年前 栫ノ原(カコイノハラ)遺跡(鹿児島県加世田市)、奥ノ仁田(オクノニタ)遺跡(鹿児島県西之表市) (約1万2千年前) 定住生活の跡(丸ノミ型磨製石斧,石皿、磨石、石鏃などが発見された。)有肩石斧の原始的形態のものが出土する。
B.C.7,000 早期
上野原遺跡(鹿児島県)日本最古(縄文時代早期:約9500年前)の大規模な集落遺跡。 住居跡46軒と蒸し焼き用炉跡が発見された。
鹿児島県から、しかも日本最古の縄文集落が発見され
弥生式土器に似た土器まで発見され、「縄文も西からか?」と騒がれている。
鬼界カルデラ噴火。
中野B遺跡(北海道函館市) 500軒以上の縄文早期(7~8000年前)の竪穴住居群。
栽培型のヒエの種子が発見された。定住生活の安定化。
縄文文化の主要な要素の萌芽期としての早期
・早期は縄文文化の萌芽期で、要素はすべて前期にまで持ち込まれる。
縄文早期になぜ縄文文化の諸要素の萌芽が生まれたのか、
なぜそれが前期に持ち込まれたのか、
その理由(背景)をより深く理解できるよう というようだ
縄文時代早期から前期に掛けてのこの時期を、解明し終えているのに、何故暦の存在が無いのか。
早期から前期は縄文時代の画期であることは明らか、縄文文明はこの時期に成立した。
それは古代の大文明と同じで、農耕の太陽暦成立と、海辺の生業の太陰暦成立によるものである。地域毎の暦は地域性を保ち、一つの暦に統一されることは無かったようだ。
図はお借りしました
引用ーーーーーーーーーーーーーー
本遺跡は、福井県あわら市と石川県加賀市にまたがる加越台地東南縁に接した標高 20m程の低丘陵上にありました。金津東部土地区画整理事業に際してその存在が明らかになり、丘陵の平坦部のほぼ全域と北側斜面を含む約 9,100 ㎡を、平成4年~6年(1992~1994)の3ヵ年で発掘調査が行われました。
調査から、縄文時代早期末から近世に至る複合遺跡で、中でも縄文時代の土壙群が中心であることが判明しました。
特筆すべきは、?状耳飾を中心とする石製装身具が大量に出土したことです。これらの装身具は、
ほぼ原位置に近い状態で土壙より出土しており、埋葬時の状況や装身具の組合せを復元できる好事例
となっています。また、海外渡来と考えられる石材を使ったものが含まれており、縄文時代における
海外交流を解明する貴重な資料でもあります。
これら、極めて高い学術的価値が認められ、平成 24 年9月に国指定重要文化財になりました。
(2) 土器
土器は縄文時代早期~後期にいたるまで、かなりの量が出土しています。しかし、出土地点により、
かなり量比に差があります。
例えば、本遺跡を象徴する?状耳飾が多く出土した、遺跡南西部の丘陵平坦部は耳飾と同時期の早・前期土器は少なく、中期の土器が多く出土しています。
また、遺跡に重要な情報をもたらした丘陵北東斜面の貝塚では、ほとんどが早・前期の土器で占められていました。
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縄文時代早期の人々の残した遺物が出土している。そこでは、未だこの時代の遺構、つまり、住居跡などは発見されていないのだが、一般的にこの頃は過去の調査においてもせいぜい土壙(どこう)程度で、住居跡がみつかるのはまれなことなのである。金谷郷台のみならず、小西台でも、また、萱野、砂田(いさごだ)の台等、台地上では多かれ少なかれこの期の土器片の散布を認めることができる。現在ではあまり人の住まない台地上が、当時は活動の場となっていたことはなぜであろうか。これはおそらく彼らの生活形態と深くかかわっていると思われる。
縄文時代も早期中頃までは多分に前代の過渡的様相を示している。獲物を求めて山野を転々とする、狩猟中心の生活を想像してみて下さい。もちろん、狩りの対象となった動物はというと、イノシシやシカといったものがポピュラーと考えるかもしれない。しかし、この時代の通称落し穴と呼ばれる土壙(図7)の多くは、これらの大形獣をとらえるには無理がある。むしろ、ウサギやタヌキといった小形の獣が妥当ではなかったかという指摘がある。つまり、狩りの対象として大小様々の獲物を捕えていたのではないかと推測されるのである。また一方、海に近いところでは活発な漁撈活動がみられたこともわかっている。
図7 落し穴実測図(大網山田台No.4遺跡)
このような生活のあり方も、その内容に徐々にではあるが変化の兆(きざ)しが認められる。
早期末にはまとまった集落の跡が県内に於いても既に数遺跡が確認されており、遺跡の数も増加して、前代の生活様式よりは一段と進歩したと考えてよいだろう。それはより定住的な生活を彼らが選ぶようになったことからも知られよう。
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縄文時代早期末葉~前期初頭には、装身具の種類が増加する。
?状(けつじょう)耳飾(?飾)やヘラ状石製品などはこの時期に登場する。
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世界では紀元前3000年頃の古代のメソポタミア文明や、エジプト文明の壁画や品物の中にも耳飾りが見られることから、人類が文化を持つようになるとほぼ同時に、人々は身体を飾るために耳飾りを使用してきたことがわかっています。
日本では鹿児島県の上野原遺跡で縄文時代早期(約7,500年前)の遺跡から土製の耳飾りがいち早く出土しているほか、前期(約6,500年前)以降は国内各地で石製耳飾りが普及します。このように歴史上、耳飾りは大変古く、またそのいずれも耳たぶに穴を開けて着用する「ピアス」であったことがわかっています。
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鹿児島で旧石器時代(縄文早期)の住居跡見つかる。 日本最古の住居跡が鹿児島県指宿市で発見された。世界でも最古か?
B.C.7,000 早期 上野原遺跡(鹿児島県)日本最古(縄文時代早期:約9500年前)の大規模な集落遺跡。 住居跡46軒と蒸し焼き用炉跡が発見された。
弥生式土器に似た土器まで発見され、「縄文も西からか?」と騒がれている。
鬼界カルデラ噴火。
中野B遺跡(北海道函館市) 500軒以上の縄文早期(7~8000年前)の竪穴住居群。 栽培型のヒエの種子が発見された。定住生活の安定化。
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縄文時代早期 土器の様式から縄文時代という名が付けられたきっかけとなった時期です。
この期を境に土器の地域差がより明確になり、土器の数量は一気に増加し、形や機能も多様化し、平底土器が一般化した。
実用面では、火災の心配もあるためか屋内に炉が設けられていない。ところが前期へ入ると住居の屋内に炉が設けられ、ここで食料の煮焚が行われるようになる。早期までは屋外の炉で煮焚を行うため、煮沸調理用の土器は炉の周辺の柔らかい土に底部を突き刺して煮焚を行いやすいように、底部の尖った尖底深鉢土器が使われたが、前期以降になると屋内の堅い平坦な床面に設けられた炉で煮焚調理するために、底面の平坦部を広く作り、平坦面に安定のよい円筒形平底深鉢土器が煮沸用土器として登場する。なお前期中葉ごろから、煮沸用具としても利用したが食料を盛りつけることにも利用したと考えられる浅鉢形土器が出現し、前期末には煮沸用土器とは分離した食料の盛つけ・保存用にのみ使われたと思われる丹漆塗の美しい土器があらわれた。
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「上野原遺跡」は、鹿児島県霧島市に位置し、縄文時代早期から古墳時代にかけての地層が堆積している複合型遺跡です。
特に重要な発掘になったのが、縄文時代早期の定住集落跡。
52軒の竪穴式住居の他、調理施設である39基の集石(蒸し焼き石焼きの跡)と16基の連穴土坑(地面に掘られた連続した穴)も見つかり、早い段階で大規模集落が形成されていたことが判明しました。
この発掘が行われるまで、縄文時代の文化水準は、東日本が高く西日本が低いと考えられてきましたが、認識が一変。人口の多寡はあったものの、文化水準は日本全土でさほど差がなかったことが明らかになったのです。
この他、同じく縄文時代早期の地層には、弥生土器に類似した壺形土器や、並べて置かれた状態の石器類、数本まとめて埋められた石斧なども発掘され、当時の祭祀を知る重要な手がかりとなりました。
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(2)早期
早期は約11,000~7,200年前の期間とされています。(「Wikipedia 縄文土器」より)
早期の土器の特徴は、何と言っても縄文と呼ばれる縄の跡のような模様が出てきたことです。単純に縄を転がして出来る縄文をはじめとして、棒状のものに山型の彫刻などをして転がして出来る押型文(おしがたもん)という模様もありました。
形状は草創期と同じように深鉢形状ですが、先端が尖った尖底(せんてい)深鉢土器になりました。これは、先端を地面に差し込んで安定させて使うためだったと考えられています。
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1-3 縄文時代早期前葉の遺跡分布
縄文時代早期前葉の遺跡分布 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用
縄文時代草創期後半、いわゆる爪型文土器や押圧縄文土器の時期になると遺跡の数はすくなくなる。
その後縄文時代早期前葉(較正年代約10000年前)になると遺跡が急増し竪穴住居祉が増え土器出土量も増加する。定住傾向がさらに強くなったことを示している。
この時期は下末吉台地から多摩丘陵に遺跡がまとまり、特に下末吉台地に遺跡が集中し、石器構成に打製石斧、敲石、磨石、石皿などの植物質食料と関係する器種が増加する(図96下段)。
++++そうなのか
この時期に三浦半島で貝塚が形成されていることから、海、川、陸に生息する多様な植物、動物を食料源とする、以後の縄文文化の特徴的な、多角的な生業へと変化していることがわかる。多様な自然資源の利用には地形の複雑な下末吉台地が適していたと考えられる。
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1-4 有舌尖頭器の用途
縄文時代草創期(隆線文期)遺跡と有舌尖頭器出土が多摩丘陵に集中しているが、その分布と縄文時代早期後葉(較正年代で約8000年前)の陥し穴の分布が一致する。
縄文時代早期後葉の遺跡分布 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用
陥し穴の分布と一致する有舌尖頭器による狩猟は消極的な自動罠猟である可能性が高く、仕掛弓である仮説を持つことができる。有舌尖頭器が複数近くから出土したり、有舌尖頭器の大きさが石鏃より大きいことがこの想定に合う。
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日本における洞穴遺跡は 681ヵ所以上が認められ、 そのうち縄文時代草創期の遺物が出土する洞穴遺跡は 50か所、最も多くの洞穴遺跡を利用するのは約8 ,000年前頃の縄文時代早期押型文土器の段階です。何故縄文時代草創期の段階と比べたら早期の段階は多いのでしょうか。
一つは移動生活ないし半定住生活から定住生活へと共に遺跡数の増大から人口増加したこと、二つは定住化に伴い集落,漁携拠点,狩猟場,植物質食料の採取場といった役割の明瞭化したことから,大所帯の集団は開地遺跡を拠点として洞穴遺跡をキャンプ的な場ないしは葬送の場として大いに利用していったことが推定されます。
また竪穴式住居が集まる集落では、住居があり、その内側に貯蔵穴があり、真ん中には広場が配置(千葉県側の場合は、真ん中が広場、神奈川県などの西関東や山梨県などの中部地方では、環状集落の真ん中にお墓が作られている)された環状集落というものが展開さています。
集落の機能が複雑化し集団間の社会がより発達したことが分かります。
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縄文時代早期になると、石鏃は基部に三角形の深い抉(えぐ)りを入れた形が多く、一部を磨く局部磨製石鏃(きょくぶませいせきぞく)が加わります。後半には基部の抉(えぐ)りが長方形をなす鍬形鏃(くわがたぞく)と呼ばれる石鏃が特徴的です。また、つまみ状の突起をつくり出した石匙(いしさじ)と呼ばれる石器が出現します。石匙は突起部に紐などを付けて携行した万能ナイフと考えられ、縄文時代を 通して出土する特徴的な石器です。
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上野原遺跡の出土品
上野原遺跡(第10地点)では,縄文時代早期後葉と同時期の他の遺跡と比較すると,多量で,しかも多種・多様な土器・土製品や石器・石製品等の遺物が約15万点以上も出土しました。
これらの遺物から,上野原遺跡の縄文人は,森と共存しながら豊かな文化を営むなかで,用途に応じて土器や石器を作り分け,多彩な土製品や石製品を使って祭りや儀式を行い,おしゃれに気を配るなど,精神的にも豊かな生活を営んでいたものと考えられています。
【写真撮影協力:牛嶋 茂(国立奈良文化財研究所】
土器
出土した多種・多様な土器
第10地点で縄文早期後葉(約7500年前)の人々は,深鉢形土器,鉢形土器,壷形土器,小形土器など,多様な土器を使っていました。
一般的には深鉢形土器を煮炊きに使っていたと考えられています。ところが,第10地点では,他に類を見ないほど形や大きさの多種・多様な土器が出土しました。
この頃の人々が使っていた土器には「S字文」や「渦巻文」などの華麗な模様が描かれています。また,南九州の土器では珍しい「縄文」がつけられているのも特徴です。
深鉢形土器
深鉢形土器は,口や胴の部分にススが付着していることから,煮炊きに使用されたものと考えられています。中には,口の部分の直径が54cm,高さが54cmと大人がやっと持てる大型のものから,片手でも持てるほどの小型のものまで,様々な土器があり,用途によってこれらを使い分けていたと考えられています。また,表面に施された華麗な文様も特徴的です。
壺型土器
弥生時代に使われた壷形土器に似た形の土器が,弥生時代よりもさらに約5000年前の縄文時代早期後葉の時期に使用されていたことが確認されました。国内最古の壷形土器の一つです。
鉢形土器
高さに比較して口径が大きい土器を鉢形土器と呼んでいます。この土器は,口の部分と胴の部分の中ほどに穴のあいた把手が付けられていることから,つり下げて使用していたとも考えられています。
土製品
土製品のいろいろ
土製品は,耳飾り,土偶,棒状土製品,土製円盤,異形土製品に分けられます。
これらの出土品のうち,装身具である耳飾りは,縄文時代中期(約4500年前)以降,特に東日本で発達しました。また,土偶は縄文時代早期の時期に九州地方では使われておらず,後に東日本から伝えられたと考えられていました。
ところが,上野原遺跡からは,縄文時代早期後葉(約7500年前)の耳飾りや土偶が出土したことで,これまでの定説が見直されることになりました。また,棒状土製品や異形土製品,土製円盤など,非日常的な土製品が多数出土していることで,豊かな精神世界を共有していたことも立証されました。
耳飾り
ピアスのように耳たぶに穴をあけて付ける耳飾りです。土製と石製があり,合計28点出土しました。土製の耳飾りには,土器と同じ「幾何学文様」や「渦巻き文様」,「S字文様」などの文様を付けたり,赤いベンガラで彩色したものもあり,縄文人のおしゃれ感覚や精神世界をうかがうことができます。
土偶
土偶は,病気やけがの身代わり,子孫の繁栄や豊かな自然の恵みへの願いや感謝をこめてつくられたと考えられています。出土した土偶は,頭と両腕を三角の突起で表現し,胸には小突起で乳房を表し,横位の細い線で肋骨を表現した女性像で,九州最古の土偶です。
石器
出土した石器
出土した石器は,獲物を捕る道具である石鏃・石槍や,加工する道具である磨製石斧・掻器・削器・彫器・石錐・楔形石器など,多種・多様です。
多種・多様な石器を製作して,用途による使い分けをするなど,高度な技術をもち,豊かな生活を営んでいたことがわかります。
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1.森の民のくらし ?橿原遺跡?
森の豊かさは、安定した食用植物に支えられていました。縄文人はその豊かさを季節ごとに利用するすべを心得ていました。生活圏のなかに、狩猟や採集のための一時的なムラをもちながら、中心となるムラで継続して暮らす定住へ進みました。定住化にしたがって、木の実をつける木の管理や簡単な栽培農耕も始まったとみられます。橿原遺跡から多数出土した打製石斧は、木の伐採・加工用とみるには弱々しく、あるいは根菜類の掘り起こしや、畑作植物の栽培に使われたものと考えられます。
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アワは、縄文時代晩期終末(2744 - 2502 年前)の京都府北白川追分町遺跡で圧痕資料が発
見されていますから、縄文の穀物でもあると言えるでしょう。その一方で、「五穀」に数えられ
ているダイズやアズキは、縄文時代早創期~早期には利用が始まっており、縄文時代中期には中
部高地と関東西部の諸磯・勝坂式土器文化圏において種子の大型化がみられますから、縄文の穀
物と断定できます。もう一つの有力な「縄文の穀物」にヒエがあります。ヒエは「五穀」には入っ
穀物 原産地 縄文時代 弥生時代
ダ イ ズ、 アズキ
ダイズ栽培種の祖先種はツルマメ。アズキ栽培種の祖先種はヤブツルアズキ。栽培起源地は中国と
されてきたが、最近は東アジア多元説縄文時代早創期~早期には利用が始まっており、縄文時代中期には中部高地と関東西部の諸磯・勝坂式土器文化圏において種子の大型化がみられる。
中部高地での大型種子は、遺跡数の減少とともに見られなくなり、その後は九州地方を中心に
大型の種子が見られるようになる。
ヒエ属 ヒエはイネ科雑穀。祖先野生種はイヌビエ
縄文時代早期から北海道や中部高地で出土。縄文時代 49 遺跡で報告がある。渡島半島と東北
北部の円筒式土器文化圏では縄文前期から中期にかけて大型のヒエ種子が見つかっており、大
型ヒエと呼ばれている。
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「縄文時代早期から北海道や中部高地で出土。縄文時代 49 遺跡で報告がある。渡島半島と東
北北部の円筒式土器文化圏では縄文前期から中期にかけて大型のヒエ種子が見つかっており、大
型ヒエと呼ばれている。」
縄文時代の農耕をどう捉えるかは日本の考古学の大問題ですが、穀物としてヒエ、ダイズ、ア
ズキが耕作されていたことは確実であり、今後の研究によってアワの中期以降の耕作が浮上する
可能性はあり得ます。
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(4)ヒエ
ヒエは、れっきとしたイネ科雑穀であり、祖先の野生種はイヌビエです。先に表1で見たよう
に、縄文時代早期、前期、中期、後期にわたって出土していて、縄文期に栽培されていた穀物で
す。念のために、那須浩郎の研究報告を正確に引用します。
「縄文時代早期から北海道や中部高地で出土しており、縄文時代には 49 遺跡の報告がある。
とくに北海道渡島半島と東北北部の円筒式土器文化圏では、縄文時代前期から中期にかけて大型
のヒエ属種子が見つかっており、縄文ヒエと呼ばれている。ここでも人口増加や森林資源の減少、
社会複雑化などとの関連で一時的に種子が大型化した可能性がある。縄文時代後期以降は大型の
ヒエ属は日本列島全域で見られなくなる。」(須藤浩郎「縄文時代と弥生時代の栽培植物」(『季刊
考古学』第 145 号、p.49、2018.11.1 発行)
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旧石器時代の人々は、更新世の末まで、キャンプ生活・遊動生活を営みながら頻繁に移動生活を繰り返してきた。旧石器時代から縄文時代への移行期である草創期には一時的に特定の場所で生活する半定住生活を送るようになっていた。
縄文早期になると定住生活が出現する。鹿児島市にある加栗山遺跡(縄文時代早期初頭)では、16棟の竪穴住居跡、33基の煙道つき炉穴、17基の集石などが検出されている。この遺跡は草創期の掃除山遺跡や前田遺跡の場合と違って、竪穴住居跡の数の大幅な増加、住居の拡張、重複した住居跡、これらの住居跡やその他の遺構が中央広場を囲むように配置されている。
加栗山遺跡とほぼ同時期の鹿児島県霧島市にある上野原遺跡では46棟の竪穴住居をはじめ多数の遺構が検出されている。このうち13棟は、桜島起源の火山灰P-13に覆われていることから、同じ時に存在したものと推定できる。この13棟は半環状に配置されていることから、早期初頭には、既に相当な規模の定住集落を形成していたと推定される[誰によって?]。
縄文早期前半には、関東地方[注 9]に竪穴住居がもっとも顕著に普及する。現在まで、竪穴住居が検出された遺跡は65ヶ所、その数は300棟を超えている。そのうちで最も規模の大きな東京都府中市武蔵台遺跡では24棟の竪穴住居と多数の土坑が半環状に配置されて検出されている。
南関東や南九州の早期前半の遺跡では、植物質食料調理器具である石皿、磨石、敲石、加熱処理具の土器も大型化、出土個体数も増加する。定住生活には、植物質食料、特に堅果類が食料の中心になっていたと想像されている。南関東の定住集落の形成には、植物採集活動だけでなく、漁労活動も重要な役割を果たしていたと考えられている[誰によって?]。
一方、北に目を転じれば、北海道函館市中野B遺跡からは縄文早期中頃の500棟以上の竪穴住居跡、多数の竪穴住居跡、土壙墓、落とし穴、多数の土器、石皿、磨石、敲石、石錘[注 10]が出土して、その数は40万点にも上っている。津軽海峡に面した台地上に立地するこの遺跡では、漁労活動が盛んに行われ、長期にわたる定住生活を営むことが出来たと考えられる。また、東海地方の早期の定住集落、静岡県富士宮市若宮遺跡は28棟の竪穴住居をはじめとする多数の遺構群とともに、土器と石器が18,000点ほど出土している。この遺跡が他の早期の遺跡と大いに違う点は、狩猟で使用する石鏃2,168点も出土したことである。富士山麓にあるこの遺跡では、小谷が多く形成され、舌状台地が連続する地形こそ、哺乳動物の生息に適した場であった。つまり、若宮遺跡では、環境に恵まれ、獲物にも恵まれて定住生活を営む上での条件が揃っていたと推定される[誰によって?]。
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縄文早期には定住集落が登場した他、本格的な漁業の開始、関東における外洋航行の開始など新たな文化要素が付け加わった。最も古い定住集落が発見されているのが九州南部の上野原遺跡や金峰町の遺跡で、およそ1万1000年前に季節的な定住が始まり、1万年ほど前に通年の定住も開始されたと推測されている。定住が開始された理由としては、それまで縄文人集団が定住を避けていた理由、すなわち食料の確保や廃棄物問題、死生観上の要請などが定住によっても解決出来るようになったためではないかと見られる[22]。植生面から見ると、縄文早期前半は照葉樹林帯は九州や四国の沿岸部および関東以西の太平洋沿岸部に限られており、それ以外の地域では落葉樹が優勢であった。
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中国原産のシソ・エゴマ[注 23]は、早期から晩期にかけて継続的に確認されており、とくにエゴマ[注 24]については栽培されていた可能性が高い[48][47]。エゴマは非食用油としても用いられるが、長沢宏昌は食用として利用されていたと推測している[46]。ササゲ属アズキ亜属[注 25]やダイズ[注 26]といったマメ類は、中期中葉以降に栽培されていた可能性が高く、後期には大型化したマメが東北から九州にかけて拡散している[29][47]。その他、ヒョウタン[注 27]・ゴボウ[注 28]・シロザ[注 29]・アブラナ[注 30]・キリ[注 29]・ウリ[注 31][要出典]などの外来植物も確認されており栽培されていたと考えられる[27][47][注 32]。
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岡村道雄の区分
考古学者の岡村は、定住化の程度で時期区分すると草創期から早期半ば頃までは、住居とゴミ捨て場が設置されるが、住居を持たなかったり、季節によって移動生活を送るなどの半定住段階であると想定している。この段階は縄文時代の約半分の時間に相当する。
次いで早期末から 前期初頭には、定住が確立し集落の周りに貝塚が形成され、大規模な捨て場が形成される。
中期後半には、東日本では地域色が顕著になるとともに、大規模な集落が出現して遺跡数もピークに達する。一方西日本では遺跡数が少なく定住生活が前期には既に後退している可能性すらある。
後期になると東北から中部山岳地帯の遺跡は、少数で小規模になり分散する。
関東は大規模貝塚を営み、西日本も徐々に定住生活が復活する。
後期後半には近畿から九州まで定住集落が散見されるようになる。この傾向は晩期前半まで続き、後半はさらに定住化が進み、瀬戸内地方から九州北部は水田稲作農耕を導入後、弥生時代早期へと移ってゆく[98]。
佐々木高明による区分
文化人類学者の佐々木は縄文土器編年区分のうち草創期を旧石器時代から新石器時代への移行期として縄文I期、
土器編年の縄文早期を縄文文化が完成に向かう時期として縄文II期、
土器編年の縄文前期から晩期までを完成した縄文文化が保持された時期として縄文III期に分類した[99]。
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土器 圧煮炊き用の土器の出現が旧石器時代の生活を変えた。縄文・撚糸文の尖底土器が作られた。夏島貝塚から撚糸文系土器、貝殻沈線文系土器、貝殻条痕文系土器という早期から終末までの土器が層位的に出土した。小型の土偶が作られる。
遺跡 貝塚は、この時期の前半には、海が進入して出来た海岸地域に作られていた。貝の種別はヤマトシジミが主体。狩猟とともに漁労が活発化した。最古級の神奈川県横須賀市夏島貝塚、千葉県香取郡神崎町西之城貝塚。押型文土器期に属する愛知県知多郡南知多町先苅(まずかり)貝塚は海面下13メートルの深さから発見された。人口2万100人。縄文犬を人と一緒に埋葬。屈葬。
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第四の母系制については、火田法の播種から、収穫後の貯蔵・管理・調理までが、大体女性の手で行われるのが農耕の世界的通則で、容器を作る仕事の大部分も、女子の仕事で、このころの機織具は不明であるが、衣類の編織・縫仕事・調理と洗濯・出産と育児・火の管理まで、石器時代は多忙であったろう。
かかる母系制社会を端的に一挙に表徴するのが土偶である。土偶は早期からあり、以後非常に殖えてくるが、大部分は女性を表わす。着衣を原則とするらしいが写実的な乳房を付し、妊娠や結髪の状を示したのもある。土偶は女性の生殖力・繁殖力・豊作を象徴する祭祀の要具らしく、世界原始農耕社会に共通する遺物で、農産物の豊饒を祈るのにも関係がある。母系制社会の一表徴とされる。かかる遺物をも含めて、他の諸事象と共に、日本の縄文社会が、農耕経済段階にあったことをいいたいのである。