金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

ついでに 12 木星の周期と干支

チャイナでは、 木星 歳星 が約12年で天球を西から東に一周する様に観察から見えたことから、十二次という別の天球分割法を用いて木星の位置が年の記述に利用されていたが、十二辰の方向と順序に対しては逆方向であるため、紀元前4世紀ごろ、十二辰の方向に合わせるべく木星とは一直径を境に逆回りに天球を巡る太歳という架空の星を考え、太歳の十二辰における位置で年を示す紀年法が使われるようになったという。
 想定の歳星(木星)は十二年で地球の周りを一周するとしていたが、実際には少し速く動き、八十六年で一つの星次を越えることになった。つまり、「歳星紀年法」と「太歳紀年法」は天体の動きを元に年を表していたのに、長い時が経つと実際の年と天体の動きが合わなくなってしまった。そのため「歳星紀年法」と「太歳紀年法」は使われなくなり、木星 太歳 の動きとは関係ない「干支紀年法」に変えられたという。
歴史の記録は天体の運動とは合わせることができないということ。

365/30 12.16  月は12回の満ち欠けを観測
同様に月も太陽も年月日時は12*30 360 という数字に変えて、365.25・・、29.53・・
という天体の動きには関係しない 360 という数字を使うことになったものと考える。
370では都合が悪い、360は計算するのに大変都合が良い 算数の上から絶妙な数字と言うようだ。さらに29.53/4 7 週7日と言う数字もまた絶妙な数字のように思う。

      ウィキペディアよりお借りしました

何れも不足側の数字であり、追加すれば調整がきくことは幸でしょう。
シュメールでは縄文人から伝わった暦 二至二分と365日を巧みに利用していたものと考える。

引用ーーーーーー
十干・十二支…5×2・6×2…五芒星・六芒星…バビロニア天文学の十二宮が後から伝播してきて十二支…
十二支は古く殷の甲骨文では十干と組み合わされて日付を記録するのに利用されている。戦国以降、日だけでなく、年・月・時刻・方位の記述にも利用されるようになる。
戦国時代の中国天文学において天球の分割方法の一つであった十二辰は、天球を天の赤道帯に沿って東から西に十二等分したもので、この名称には十二支が当てられた。
また、木星が約12年で天球を西から東に一周することから、十二次という別の天球分割法における木星の位置が年の記述に利用されていたが、十二辰の方向と順序に対しては逆方向であるため、紀元前4世紀ごろ、十二辰の方向に合わせるべく木星とは一直径を境に逆回りに天球を巡る太歳という架空の星を考え、太歳の十二辰における位置で年を示す紀年法が使われるようになった。これが後漢以後に始まり現在まで使われている干支による紀年法の起源である。
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「干支紀年法」
歳星(木星)は十二年で地球の周りを一周すると考えられていましたが、実際には少し速いため、八十六年で一つの星次を越えることになります。つまり、「歳星紀年法」と「太歳紀年法」は天体の動きを元に年を表していたのに、長い時が経つと実際の年と天体の動きが合わなくなるということがわかりました。そのため「歳星紀年法」と「太歳紀年法」は使われなくなり、「干支紀年法」に改められました。
これは実際の天象から離れて一年ごとに名をつける方法です。使われたのは既に登場している十天干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)と十二地支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)で、上述の「閼逢摂提格」「旃蒙単閼」を簡単にしたものと考えられます。
干支そのものは古くから使われていましたが(主に「日」を表すために使われました)、正式に年を表す名称として使われるようになったのは、東漢(後漢)光武帝建武三十年(54年)のこととされています。

「甲子」「乙丑」「丙寅」と始まり、「閼逢摂提格」「旃蒙単閼」などと同じように六十年で一周します。これを「六十甲子」といいます。
 
東漢の頃から、民間では十二地支に動物をあてはめました。これを「十二生肖」といいます。子は鼠、丑は牛、寅は虎、卯は兔、辰は龍、巳は蛇、午は馬、未は羊、申は猿、酉は鶏、戌は狗(犬)、亥は猪(日本では野生の猪ですが、本来は豚を指し、中国では今でも豚です)です。
後世では動物を使って「馬年」「兔年」などと表すようになり(敦煌の古文等)、中国では現在でも「鼠年」「虎年」などと呼んでいます。
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3.3. 干支の起源はメソポタミアにある
メソポタミアと中国は距離的に離れているが、メソポタミアの彩陶と類似の土器が仰韶(ぎょうしょう)文化の遺跡から発掘されるなど、中国は先史時代からメソポタミアの文化的影響を受けていたと推測される。
殷は戦車を採用した最初の中国王朝であるが、車輪の起源はメソポタミアなので、殷がメソポタミアと接触していた可能性は極めて高い。
中国の干支はメソポタミアの影響で成立したというのが本稿の結論であるが、それは一度に成立したのではなくて、二つの段階を経て成立したと考えられる。
第一段階は殷が成立した紀元前十六世紀頃で、この時、古バビロニア王朝から中国に六十進法が伝わり、十実十二娠が六十日周期のシステムとして成立した。
第二段階は紀元前四世紀頃の春秋戦国時代で、この時、新バビロニア王朝から中国に黄道十二宮や占星術の知識が中国に伝わり、十二という数字が、一年における月の数ではなくて、木星の公転周期と解釈されるようになり、六十年周期の十干十二支が干支の主流となった。
今日、メソポタミアの六十進法も中国の十干十二支も、後の時代の発見である木星の公転周期で解釈されがちだが、そうした解釈で本来の意味を見失ってはいけない。


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