古代中国の周も亶父が120歳とかなっているから二倍歴の可能性あり
中国の古書には、日本は春秋の呉の太白の子孫ということになっている。
呉が滅ぼされた時に海を渡って亡命したのだろうという。
ちなみに呉の祖先は周の亶父の息子の太白で、一族数千と共に中国北方から呉の地に移住したとか。 古公亶父(ここうたんぽ)
その時代は春秋暦だったので、秦が支那大陸を統一して焚書して、新たに1年歴を採用したのだろうという。 夏と殷の時代は紀元前千年前後となる。
現代の年代観 二倍年暦から推定
夏王朝(BC2000頃-BC1600頃) 200年 前1126から
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殷王朝 (BC1600頃-BC1046) 270 前926から
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周王朝 (BC1046-BC256) 400 前656から
新羅、百済、倭 この3国が共通に1年2期制の干支を使っているという。
金生遺跡は四立 立春観測の天文台、年代から見てチャイナの夏王朝へこの暦のもとは、縄文人の方から伝わったものと考えても良いのでは。
引用ーーーーーー
亶父が死にました。百二十歳だったともいわれています。
亶父は死ぬ前に季歴に言いました「わしが死んだら汝は二人の兄を呼べ。彼等は位を譲るはずだ。そうすれば汝は義を守り、その地位を安定させることができる。」
亶父が死ぬと季歴は太伯と仲雍を招きました。群臣は太伯に即位を勧めます。しかし太伯と仲雍は先君の命を重んじて季歴に譲り、荊呉に還りました。
季歴が亶父の跡を継ぎました。これを公季といいます。『竹書紀年』(今本)は公劉から十三世で季歴に至るとしていますが、『史記』の『周本紀』『三代世表』では公劉を含んで十一代目が季歴になっています。「公非辟方」や「高圉侯侔」等が二人の人物を指しているのか、どこかに抜けがあるのかもしれません。
季歴は古公亶父の遺道を修め、行義を厚くしたため、諸侯が帰順しました。
季歴の十年、飛龍が殷の牧野を満たしました。聖人が起きる予兆です。
季歴の業績については商王朝の時代にも書きましたが、以下、簡単に再述します。
商王朝後期、季歴は西落鬼戎を攻めて狄王を捕えました。
燕京の戎を攻めて大敗しましたが、余無の戎を破り、商王朝は季歴を牧師に任命しました。
やがて季歴は程に遷りました。
季歴は始呼の戎や翳徒の戎を敗り、三大夫を捕えました。
これらの功績によって商王朝から九命を受け、伯(西長。西伯)に封じられます。圭?(玉の酒器)と秬鬯(酒)を下賜されました。
季歴は百歳で死んだといわれています。?県の南山に埋葬されました。