追加しました。 墳丘からの年代図表
纏向石塚古墳とホケノ山古墳の方位と向きは
地図
方位はどちらも立春の日の出の方向を示しているそして前方部を三輪山に向けていることも同じであるようだ。
時期的には次のように言われていた。
●纒向古墳群
纒向石塚古墳 3世紀初頭または3世紀後半
ホケノ山古墳 3世紀中頃
弥生末から古墳時代の初めに当たる時期で纏向遺跡の成立の始まりに当たるようだ。
奈良盆地の中で見る限り、この二つの古墳は中軸方位に於いて同じで、前方部を三輪山に向けている点でも同様であるという特徴を持っていたようだ。弥生と古墳時代の境目に当たるので、縄文の伝統は残されていた可能性はある。
太陽暦を作るとすれば、縄文時代の金生遺跡での金が岳で立春日の出観測をしていたものと同じ事をしていたようだ。冬至や夏至では日にちは定まらず暦は作れない。
どちらの古墳も観測記録はないのでここに金生遺跡の冬至と立春の日の出位置を示す。
立春日の出位置
金が岳 通称茅が岳 冬至の日の出位置
手前の林は金生遺跡
日の出を見る為の山の姿としては、茅が岳と三輪山はこれで見たところよく似た山容を示していると思う。 金生遺跡では配石遺構のレプリカで見る限り冬至の方向は配石で、立春の方向は配石内の石棒で示されているように見える。
どちらの古墳についても、この時代の中でどのような位置にあるのか分らない。
どなたか詳しく分る方は居られませんでしょうか。
図はお借りしました
引用ーーーーーー
稲作の存在を示す古い時代の遺跡が新たに見つかることによって弥生時代の開始が大きくさかのぼったのと同じように、古墳時代も少なくとも半世紀くらいさかのぼっているようです。その理由は、古墳そのものの研究だけでなく、出土する副葬品や埴輪、土器など様々な面での研究が進んだことに加えて、年輪年代測定法などの年代測定の新たな方法が定着してきたこともあると思います。これらの結果、特に古い時期の古墳の築造時期がさらに早まる傾向にあるように感じます。
中には3世紀前半を古墳時代早期と定義する研究者もいるようですが、ここまでさかのぼると古墳時代に造られた墳墓が古墳で弥生時代に造られた墳墓が墳丘墓という、古墳と墳丘墓の呼称の見直しも必要になってきそうです。
とくに弥生時代の後期に造られた出雲の四隅突出型墳丘墓や吉備の楯築墳丘墓、丹後の赤坂今井墳丘墓などは古墳と言っても問題なさそう。先述の西上免古墳という呼称も同じ話です。
さて、自分の中で以下のように整理ができました。とくに3世紀後半は出現期ではなく前期にあたるということを認識できました。
出現期 3世紀半ば
前期 3世紀後半~4世紀後半
中期 5世紀前半~5世紀後半
後期 6世紀前半~6世紀後半
終末期 7世紀
さらに桜井市や天理市のホームページの情報をもとに次のような整理をしてみました。
●纒向古墳群
纒向石塚古墳 3世紀初頭または3世紀後半
纒向勝山古墳 3世紀前半
ホケノ山古墳 3世紀中頃
箸墓古墳 3世紀後半
東田大塚古墳 3世紀後半
纒向矢塚古墳 4世紀前半
●大和古墳群
中山大塚古墳 3世紀後半
西殿塚古墳 3世紀後半
東殿塚古墳 3世紀後半
下池山古墳 3世紀後半
ノムギ古墳 3世紀後半
波多子塚古墳 3世紀後半
馬口山古墳 3世紀後半
●柳本古墳群
黒塚古墳 4世紀初頭から前半頃
大和天神山古墳 4世紀前半
行燈山古墳 4世紀前半
渋谷向山古墳 4世紀後半
上の山古墳 4世紀後半
櫛山古墳 4世紀後半
纒向古墳群にはホケノ山古墳(3世紀中頃)や箸墓古墳(3世紀後半)のように3世紀の築造とされる古墳が多く、なかでも纒向勝山古墳は3世紀前半とされています。3世紀前半ならまだ弥生時代なので正確に言うと纒向勝山墳丘墓です。纒向石塚古墳の3世紀初頭説も同様ですね。
また、柳本古墳群は行燈山古墳(4世紀前半)や渋谷向山古墳(4世紀後半)のように4世紀の築造が多い。そして大和古墳群ではこの下池山古墳と同様に多くが3世紀後半の築造とされています。(古墳の築造時期については様々な説があるので、これはあくまで桜井市と天理市のホームページによった整理です。)
ということは、古墳群の単位で考えたときにおおむね、纒向古墳群→大和古墳群→柳本古墳群の順に成立したと考えられます。あくまで今回および過去に踏査した古墳を中心に整理しただけなので間違っているかもわかりませんし、だから何やねんと言われればそれまで。機会を改めて検証したいと思います。