金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

纏向石塚古墳の示すもの

纏向遺跡の古墳は三輪山方位を向き、立春方位の古墳で有ること
立春は金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設の示す茅が岳の日の出観測に一致する
これは何故なのか
実は
橿原から亀ヶ岡式土器などが大量に出土したことは、東西の人々の交流が盛んだったこと、奈良盆地が当時も重要な土地だったことを物語っているのです。という
東日本の当時の最先端の文化が橿原まで来ているということから、橿原は東日本と西日本の接点でもあったといえるのではないでしょうか。
と言われていた。
これ以外にも奈良では道祖神などに供えられている丸石の存在する地域があり、山梨や長野などにある道祖神に供えられる丸石と同様な文化の存在が推測される。


纏向遺跡の古墳時代前後の発展はこの地が、東と西の接点として、縄文時代以来の歴史を持つ重要な地点であるということを示しているようだ。それは地政学的に戦略的に重要な土地であったからなのだろう。

図はお借りしました

引用ーーーーーーーーーーーーーー

 <⑩東西日本の交流-亀ヶ岡式文化>

また縄文時代には、東日本と西日本に意外な交流がありました。

青森県津軽地方の縄文時代の遺跡・亀ヶ岡遺跡は、女性をかたどった土偶が見つかっていることで有名です。この土偶は、両手の先がすぼまった形であること、また目がたいへん大きいことが特徴です。

当時、東北地方を中心に、亀ヶ岡式と言われるこのような土器文化が広く広まっていました。

東北からはるかに離れた奈良盆地・橿原神宮周辺の橿原遺跡から、亀ヶ岡式の土偶が発見されています。すぼまった手の先は、確かに亀ヶ岡式のものです。

橿原遺跡で見つかった亀ヶ岡式の土器は、東北地方で作られてここに運ばれたものではなく、東北のものに似せてここで作られたものだと考えられています。

さらに橿原遺跡からは、ヒスイでできた装身具なども見つかっています。
ヒスイは日本では、新潟の糸魚川周辺など限られた場所でしか採れません。
縄文時代、橿原周辺は、日本列島のさまざまな地域のモノや文化が集まる場所だったのです。

これまで、縄文時代は東日本が先進地域で、西日本の重要性が増すのは弥生、古墳時代からと思われてきました。また東と西では文化の違いが強調されてきました。

しかし、橿原から亀ヶ岡式土器などが大量に出土したことは、東西の人々の交流が盛んだったこと、奈良盆地が当時も重要な土地だったことを物語っているのです。

東日本の当時の最先端の文化が橿原まで来ているということから、橿原は東日本と西日本の接点でもあったといえるのではないでしょうか。

東西を結ぶどんなルートがあったのかは不明ですが、神津島の黒曜石が三重県に運ばれていたことを考えると、陸上あるいは日本海岸ぞいだけでなく、太平洋沿いに舟を使ったルートが存在した可能性もあるかもしれません。
ーーーーーーーーーーーーーー

<東日本系土器の西日本への影響>
東日本土器西への影響 


(「新潟県の弥生時代前期~中期」(渡邊裕之、新潟県教育庁文化行政課)より)

縄文晩期前葉には、淡路島~兵庫県あたりまででしたが、縄文晩期後葉(九州においては弥生早期)には、何と九州北部~九州中部にまで、範囲を広げました。それが、縄文晩期(九州では弥生前期)には、岡山県~四国東部まで後退してます。

縄文晩期は、九州では弥生時代早期ですから、九州北部で水田稲作が始まった頃です。ここで亀ヶ岡式土器の影響範囲が次第に東へ後退する時期は、ちょうど水田稲作が東へ伝播する時期と重なることは、注目です。

このように、亀ヶ岡式土器が、西日本の九州にまで影響を及ぼしていたことがわかりますが、さらに驚くべき発見がありました。

亀ヶ岡土器が、亀ヶ岡遺跡から約2000km離れた沖縄県北谷町の平安山原B遺跡から出土したのです(以前紹介しましたが、再掲します。)。

”縄文時代晩期(約3100~2400年前)の東北地方を代表する「亀ケ岡式土器」と一致する特徴を持つ、沖縄県北谷町で出土した土器片について、調査した弘前大は19日、「西日本で作られた可能性が高い」と発表した。沖縄まで亀ケ岡文化が伝わったことが分かり、当時の交流を示す手掛かりとなるとしている。
土器の模様が、北陸や関東で作られた亀ケ岡系土器に似ているため、「北陸や関東に住んでいた人が、西日本へ移動し製作したのではないか」と同大の関根達人教授(考古学)は推定。”(河北新報オンライン、2017年5月20日)

 

亀ヶ岡土器、沖縄1 


亀ヶ岡土器、沖縄2 

(「河北新報オンライン、2017年5月20日」より)

亀ヶ岡式土器は、まさに日本列島全体に影響を及ぼしたことになります。

ここでさらにもう一つ、興味深い研究成果を紹介します。

ひとつは、九州北部での最初の弥生土器の文様に、亀ヶ岡式土器の影響がある、というものです。これは、先に挙げた亀ヶ岡式土器の影響範囲の話と一致します。

”福岡県や佐賀県など北部九州での調査の結果、最初の弥生土器文様の大部分は、東北縄文の亀ヶ岡式文化の文様に起源することが明らかになりました。分析の結果、土器の粘土は地元産、文様は東北そのものであり、東北縄文人が北部九州に来て土器製作に関わったと考えました。また、東北の漆器も多数北部
九州に来ており、ものづくりでの東北縄文文化の影響は計りしれません。”(「弥生文化のルーツの解明」(国学院大学栃木短期大學 教授 小林青樹)より)


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