縄文時代前期に内陸では太陽暦 後にチャイナでは「八節の暦」と記載された が利用されていた。
縄文海進の海が広がる関東平野の海辺では、太陰暦 12月の暦が利用されていた。
前期以来2000年近くに亘り、地域による生業による違いにより、異なる暦が使われているという、この状況が続いていたものと思う。
しかし、内陸と海端の人々の交流の上で、このように暦が異なることは大変不便だったものと考える。
必要は発明の母 ということで、努力が続けられていたものとは思うが、文字の無い世界で、記録もままならないことから、このように2000年程の時間が過ぎていった。
縄文時代中期になって遂にその不便が解消されるときが訪れた。
太陽暦の刻み、半年182日/2/2 45日
この刻みと太陰暦 半年12弦 30日/2 15日
この刻みを更に 1/2 とすることではどうにも解決着かなかったが、
天才が現れて、45日/3 とすれば 15日が答えとなることを考案したものと考える。これが後にチャイナで二十四節気の暦と呼ばれることになるものである。
これにより2000年の暦の違いによる難儀が解消されて、内陸栽培社会と潮の干満を知る社会の交流の障害が取り除かれることとなったものと思う。
この時にこれを祝っての縄文社会の興奮は様々な土器製品に残されていた。
もちろん縄文時代の伝統である波状突起口縁の土器にも造形されて供献土器として特別に祝われていた。
これ以後もカレンダーは進化して5、7波状突起口縁の土器が作られた
図はお借りしました。