金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

立春観測の意義

金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設の観測点は
何故立春だったのか
立春観測の意義は何だったのか。

それは朔旦立春で太陽暦と太陰暦をシンクロさせ社会的交流を容易にするためだった
暦の起点を春分から45日も早く作れる栽培暦においての利便性だった
これが世界の古代文明の中で、抜きん出て優れていた縄文時代を象徴するものである。

 

海辺の地域では干満を知り海の生業を操業しやすくするため、太陰暦が作られて利用されていた。
これは182日/30日 月の朔望から 半年6回と知られていた。
海の潮の動きを捉えるためには、これを更に30日/2 15日として潮の満ち引きの動きを捉えて、12弦の暦として利用していたものと思う。
シュメールでは海辺に近い地域だったことから、太陰暦が最初に作られたとされている。
これに対してエジプトでは、内陸に国があり太陽暦に近いものが作られることになったという違いがある。

縄文時代には太陽暦は182日/2/2  45日  こうして四季を知り、季節の開始点が知られていた。
ここまででは太陽と月の暦とは関係づけることが難しかった。
住む地域により異なる暦を使うことは、生業の上からは合理的だったものの、社会的交流の上では大変不便だった。

しかし2000年近く後の縄文時代中期になって、この困難を遂に打ち破ることが出来た。
天才が現れて182日/2/2/3  15日の区分暦 二十四節気の暦が作られることになった。
これにより太陽暦は太陰暦にシンクロさせることが可能となった。
それは 3波状突起口縁の土器が現れたことから推察できる。

3 という数がどれほど大きな興奮を縄文社会にもたらしたかは、土器や土偶、供献土器など広範囲な製作物に 3が表されていることから分る。3 がこれだけもてはやされていたのはその衝撃がいかに大きかったかを示している。

 立春観測は朔旦立春の観測により完全にシンクロさせることが出来ることが分る。
19年毎に暦の正確さを校正することが出来る。後にギリシャなどでメトン周期として知られるものはこの時期に既に縄文社会では確立されていた。

 暦を作る上からは春分を起点に暦を作るのでは、冬至から91日も後になる。
それに対して立春を起点に暦を作るのは45日も早い時期に正確な暦が作れることになる。
生業を栽培歴を開始する上でどれほど利便性が上がるかその差は明らかである。

古代文明の先駆けとされるシュメール文明では、あの時期にも春分を年の始として暦が作られていたようだから、縄文時代の立春観測による暦作りに比べて、かなり遅れていたと考えざるを得ない。

チャイナでは王朝により暦の起点を11月、12月、2月と変えていた。
最初の王朝とされる夏王朝では、立春、夏正としていたことから、後の王朝から夏正の正当性が主張されるなどしていた。春秋戦国期になっても立春の意義をよく知らなかったものと思わざるを得ない。

また古代の王朝で重要なものとされていた鼎 3足の鍋 の 3の起源は、明らかにされていないようだから、立春と合わせて 3の起源は、時代的に見て、何れも縄文時代にあったものと考えて良いのでは無いだろうか。
それはまた、後にチャイナで二十四節気の暦と記載される暦の起源も、縄文時代にあるとして良いのでは無いか。

 

金生遺跡はこのような立春観測のための太陽暦観測装置として設立されたものと考える。
これまで見てきたところでは、立春観測により太陽暦を作るための天文台は、世界の何処にも存在していないようだ。シュメールで僅かに春分が知られていた程度で、チャイナ以外では二至二分や四立といった思想は無いようで、春分も立春も知られていたとは思わない。
ここでの観測により太陽暦地域と太陰暦地域の交流の障害が除かれることで、縄文社会は大きく発展できたものと思う。

その後の縄文社会では 5,7突起の供献土器が現れて、七十二候の暦、12月の24弦の暦が作られていたものと思う。それによりカレンダーは
5+5+5 +5+5+5 一月
7+7+1 +7+7+1 一月
のような仕組みでシンクロさせて、栽培暦や潮の暦が利用されていたのだろうと推測する。


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