貝塚は早期に始まり、後期頃大発展したのは何故か
1. 月のこよみによるもの
神子柴遺跡の時期には100キロメートルを越える距離でも、移動と会合が可能となっていて、月齢30日のこよみを扱えるようになっていた。
しかしこのこよみは、人の移動や会合には役だったものの、潮の干満を予測して、集団で貝を採取して、貝塚を作るまでの知識には成らなかっただろう。
2.定住が安定して、一太陽年が365日と分かり、太陽暦の糸口が得られた。
図 6突起土器
数学のレベルから365日という大きな数は、そのままでは扱えなかったので、365/2 182日をベースに半年の月の周期が6回で有ることが分かる。それにより海の干満を予測出来るようになり、干潮に合わせて集団で貝採取を行うことで貝塚が形成できるようになった。
太陽暦 半年182日から半年四分暦を簡単に作れるので、四季と季節の始まりは予測できるようになった。しかし月のこよみにはまだ季節の判断が正確に入れられないため、貝採取の適期は分らず、収穫できる貝は実入りの良い時期のものでは無かった。
3. カレンダーの完成
図 月齢と季節を示すカレンダー
月と太陽の周期を合わせるための努力は、ついに二十四節気の暦を作りだし、太陽暦と月のこよみをシンクロさせることが出来た。つまりカレンダーが成立したことで、初めて貝の適切な収穫時期を判断できるようになった。ハマ貝塚、中里貝塚に見るように現代と変わらない貝の収穫時を知ることが出来るようになって、貝塚は大発展することになった。
図 加曽利E式土器
それは縄文中期以後、二十四節気の暦の成立時期、その事を記録しているのは3突起土器である。
始まりは加曽利E式土器が作られる頃から始まっていたのでは無いか。
その知識が広まるのにはかなりの時間が掛かたものと考える。
しかし広まると共にキイとなる数 3は土器や土偶、文様にと様々に表現され、大いに喜び祝われたものと考える。
図はお借りして補足しています