金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

カレンダーの存在を示すハマ貝塚・中里貝塚の衝撃

カレンダーの存在を示すハマ貝塚・中里貝塚 貝採取はカキとハマグリでサイズも時期も

決まっていた という衝撃の事実

 

  

         図 中里貝塚


「ハマ貝塚」とは何か? 「ハマ貝塚」のハマとは浜のこと。
そして「ハマ貝塚」の特徴はその規模が極端に大きいこと。
ちなみにその極端に大きいその規模とは、代表的なのは東京都北区上中里にある『中里貝塚(なかざとかいづか)縄文時代中期中ごろ~後期初め』ですが、なんと長さが1km以上、幅が70~100m、そして貝層の厚さは最大で4.5mもあるんです 

そしてほとんど貝殻だけで出来た中里貝塚、貝採取は時期と大きさが決まっていること、
「ムラ貝塚」加曽利貝塚などではサイズも貝類も雑多であるが、
それとは遺物内容も異なり生活ゴミが殆ど出ていない。
またそれを裏付けるかのように「ハマ貝塚」の周囲には竪穴住居跡もみつかっていない。

それに対して千葉市の加曽利貝塚は北と南に別れている
北貝塚は縄文中期(約5000~4000年前)、円形の北貝塚(直径140メートル)
南貝塚は縄文後期(約4000~3000年前)で、だ円形の南貝塚(長径190メートル)1000年の時間差あるものが連結し、8字形をした国内唯一の貝塚とされる。
ここでは中期になると住居が「ムラ」のほぼ中程の広場を囲んで配置され、それらの住居にゴミ捨て場として貝塚が残されたので結果として環状の貝塚の並び方が形成された。(例:加曽利貝塚)

 

       図 位置の地図

中里貝塚は
日本で最大の貝塚で、東京都北区にある中里貝塚です。いまでは内陸部ですが、縄文時代は、ここまで東京湾が入り込んでいました。ここには厚さ4mほどもある貝の層が当時の浜辺に沿って約1㎞にもわたって続いています。この貝塚の貝は、非常に大きなハマグリとカキの2種類だけ。
その中身は、カキの層とハマグリの層が繰り返し規則正しく堆積しています。
しかもその貝の大きさは千葉県側の貝塚と比較すると極めて大きなものばかりなのです。武蔵野台地の集団は利用する貝を大型のハマグリとカキに限定しています。これは海の資源管理に地域差があったことを示しています。

ハマ貝塚は生活ゴミは無く、貝殻のみでできている貝塚だ。東京都の中里貝塚の場合はマガキとハマグリが交互に積み重なり、1年に2回の採取シーズンがあったと推定されている。
中里貝塚の場合はほとんどのハマグリが5月から7月に採られているのがわかりました。現代の潮干狩りの時期とほぼ一致しています。カキは一般的に身が大きく太る冬に採られていたと推測されます。
つまり、夏にはハマグリを採り、冬にはカキを採っていたようです。また、この貝塚からは年齢の小さい貝がまったく出てきません。おそらく、採っても海に戻していたのでしょう。これも、貝という海の資源を枯渇させず、長期間、採り続けるための知恵が働いていたといえるのです。

中里貝塚の場合はマガキとハマグリが交互に積み重なり、1年に2回の採取シーズンがあったと推定され、集落から離れた場所に泊まり込んで、貝を採取し煮込んで干し貝を作る作業を行った。規模からいって複数の集落の人々が係わっていたと考えられる。また採取される貝の量は、周辺の集落での消費量を越えており、遠く内陸の集落までも流通していたと考えられる。

 

       図 貝加工工場


『中里貝塚』においては、貝塚背後の砂地から焼き石を投入し、水を沸騰させて貝のむき身をとったとされる木枠付き土坑(どこう)や、焚き火跡(たきびあと)、木道などが確認されているそうです。

さらに幅約40メートル、長さ1キロにわたって、おびただしい数の棒(杭)が浅瀬に立ち並んでいたことがわかっており、海水の干満の差を利用して、付着するカキを採る=カキの養殖法が行われていたのです。
ちなみにこの養殖法、江戸時代以降の広島や、現在のフランスにおこなわれているムール貝の養殖法とほぼ同じ技術だそうです。

干し貝を作り製品は内陸各地に提供していた。
貨幣の無い時代に対価は何だったのか、対価となりそうなものは出ていないので、それがどのようにシステムだったのかは謎のまま。

後期のこの時期に東京湾の周りでは貝塚が大きく発展していた。
 この時期には人々の生活は集落の枠を超え、周辺の集落と協力するだけに収まらず、広い地域を覆う交易ネットワークができあがっていた。交易ルートと物流センターが存在し、各種の物資が行き来していた。

千葉側に対して武蔵野台地側では、台地上に多くの集落が河川沿いに分布していますが、中里貝塚という当時の浜辺に残された巨大な貝塚が1か所残されるだけで、海際であっても台地上に大きな貝塚はありません。多くの集落の協力の下に貝採取が行われ、処理作業が行われていた工場の跡と想定できるようである。
4・5mもの厚さの貝層が長さ1000mにもわたって海辺に堆積しているのですが、その中身はカキの層とハマグリの層が繰り返し規則正しく堆積しています。しかもその貝の大きさは千葉県側の貝塚と比較すると極めて大きなものばかりなのです。
武蔵野台地の集団は利用する貝を大型のハマグリとカキに限定しています。
そして中里貝塚で採取された大型のハマグリとカキは干貝に加工され内陸のムラに流通させていたのです。
このように狩猟採集社会であっても、それぞれの土地に住んだ縄文人たちには資源管理や資源の利用技術にも違いがあることがわかってきました。

 

  図 縄文時代のこよみ発展の歴史経過想定

 

 

      図 土器に突起として記録された数から解読する


この時期は、月のこよみと太陽暦がシンクロでき、カレンダーが成立したと想定する時期に当たる。
早期のこの時期には、半年ベースの月のこよみを完成し、干満を予測出来る事を知ることとなり、集団作業で貝採取が可能となったことで、貝塚が形成されるようになった。
しかし貝採取の適切な時期はまだ知り得ず、季節を知ることが求められていたが、この時期についにカレンダーが出来て実入りの良い貝を最適な採取の季節に収穫することが出来るようになっていた。これは現代と変わらない。

           図 縄文時代のカレンダー想定


現代のカレンダーとは異なり、曜日で月齢を正確に示していた。それは金生遺跡で年二回、石棒により立春と立秋の日の出を観測して月齢を正確に反映したカレンダーを維持していたものと考える。

図はお借りして補足しています


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「旅行」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事