金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

中期から後期にかけた、貝塚の大発展

中期から後期にかけた、貝塚の大発展は何故起きたのか

             図 縄文海進


東京湾を中心にして
東側では後期に貝塚が爆発的に増加していた

         図 一例 市川の貝塚の分布


これにだけ大きく増加したことは、何らかの技術革新があったのでは無いか

 

          図 中里貝塚 

東京湾西側では巨大貝塚が作られていた
カキ、ハマグリの採取と処理の大工場が成立その廃棄された貝である
貝は貝採取の最適時期に採取して、それも大きなものだけだった。
この採取時期は現代の貝採取時期と変わらないことを示している
そして採取して処理していた量は、地域や自家消費を遙かに超える大量なものだった
ことから、製品は内陸と交易が行われていたとされている
ここからも何らかの技術革新があったと考えなくては成らない

ではそれは何だったのか
この時期は中期寒冷化の時期だった
内陸に住む人々が海辺に降りてきた時期では無いか
内陸では太陽暦があり、一年を八分節するこよみがあったものと考える。
それが人々の移動と共に海辺にもたらされていた
海辺では12月の月齢を示す暦が作られて、貝の採取、貝塚を作ることに利用されていた
しかしこのこよみでは季節を示すことが出来ていなかった。
ここに太陽暦がもたらされて、月のこよみと太陽暦をシンクロさせることが可能となった
45日刻みのこよみと、30日ないし15日刻みの暦をシンクロさせることである
これを可能としたのが二十四節気の暦である

 

図 カレンダー
こうしてカレンダーが誕生したと考える。
カレンダーは人々の交流をこれまで以上に容易なものとした。
海辺の人々は季節を正確に知ることになり、貝採取の最適な時期を簡単に知ることが出来る事に成った。
それは貝の良好な収穫をもたらし、貝塚の価値が上がり発展することになった
それが後期の貝塚の大発展をもたらした
中里貝塚の大量の生産品も内陸にスムーズに届けられることが出来、大工場が生まれた

 

              図 土器の変化年表


このことは土器に記録されていた数からも知ることが出来る。
二十四節気の暦作りには45日と言う日数を1/3とする 15日刻みとすることが必須であり
これにより15日刻みの月のこよみとシンクロさせることが出来るからである。東京湾まわりの貝塚の大発展と共に出来たカレンダーが世界最初のカレンダーで、カレンダーの発祥は東京湾周辺からである。月のこよみを正確に反映する太陽暦は、貝塚を大発展させるために開発されたものであり、縄文時代を措いてないものと考える。


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