金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

邪馬台国の滅亡は

2022.02.22       追加して訂正します。      

  幻の邪馬台国 邪馬臺国

先ず、魏志倭人伝中に出現する表記上は、邪馬台国との表記は無いこと、「邪馬壹国」であるが、その「邪馬壹国」の表記さえも、出現するのは1回に過ぎず、「女王国」が5回を数えるということのようです。
また、邪馬壹国と後のヤマト王権の関係、邪馬壹国の位置については、記載内容では明確に出来ないので、諸説あるという状況のようだが、女王国の東にあるという記載があると言われているので、それなら併存したと言うことは考えやすい。

 【女王国の東あるいは南の国】
   女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國復在其東 南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里
    .
 (現代文解釈) 女王国の東へ海を渡る事千余里で、また国がある。皆倭人である。更に侏儒国しゅじゅこく)がその南にある。この 國は皆身長が三、四尺(90cm~120cm)である。女王国を去る事、四千余里である。またその東南に裸国・黒歯国があるが、船行一 年で到達する。.倭の地は、海の中に島として存在しており、地続きだったり島になったりいる。周囲は五千 余里程である。.

 

九州にあったのが、女王国であり、邪馬壹国 ヤマト は畿内にあったとも言う。

 

邪馬台国という名称については、時代変遷の時間差や陳寿の誤解等もあり、(魏志倭人伝には)ねじれて表記されている。また大和王権は、いわゆる「倭国大乱」のとき(2世紀末)、女王国連合に破れた一派が大和地域に移住したものたちであるともいう。
ヤマト中心に配られていた大きな三角縁神獣鏡の存在の有ることはそうした者が居たとすれば理解出来るもののように思う。
また纏向の茅原大墓古墳 逆シリウス方位で纏向古墳群にある これは九州からの勢力の存在を思わせるものかと考える。。

こうした事から考えるとき、「邪馬壹国」はヤマトと読めるというので、「ヤマト国」と「女王国」とが存在していたが、チャイナ側にはその実情が分明とならず、誤解されて倭人伝に書かれていたのでは無いだろうか。

女王の住む国は伊都国の南にあると三回書かれているという。
帯方郡から女王國までの12,000里のうち、福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里使っていることから、残り1,500里(佐賀県唐津市に比定される末盧國から伊都國まで500里の距離の3倍)では短里説をとれば女王国の位置は九州地方北部にかぎられることになるという。
倭国は海中の島の上にあり、一周が五千餘里(短里でおおよそ300-500 km)とあることから、九州に近い大きさという。
そうしたことをベースにして次のように考えてみた。


列島の国としては弥生末には先ず、女王国、狗奴国、銅鐸国、毛人の国が存在していた。
  どういうのが良いのか 北九州勢力 南九州勢力 吉備 ヤマト地域 東海地域 東国


まもなく銅鐸国が滅亡して、女王国、狗奴国、纏向邪馬壹国、毛人の国と変わっていた。

 

古墳時代には女王国は滅亡して邪馬壹国、毛人の国と成っていたとして見ると理解し易いのでは無いだろうか。

                邪馬台国は邪馬壹国

図では邪馬台国の標識になっていますが、これが女王国 倭国なのでは、いずれにしても九州島内にある様です。

ここまでの地図は借用していますので、書いていることとの整合性はとれていません。
大雑把に理解し易いと思い掲載しています。

  追加して訂正します。  幻の狗奴国

倭国の南に狗奴国があるということが常識の様だが
古墳時代の勢力から見て、弥生末に魏に朝貢してまで加勢を得なくてはというほど卑弥呼の倭国を脅かすほどの勢力が有ったものとは考えにくいので、呉との対抗上、卑弥呼の倭国を戦略的に重要なポジションにあるとして、位置づけ見せるために、地理配置を態と見え難くしていたのだろう。

当時の本来の勢力図としては卑弥呼の倭国が九州にあり、その東に邪馬壹国があると言うことだったのだろう。しかし呉との対決上、会稽東冶之東という地理概念に合わせて狗奴国を置き辻褄合わせをしていたものだろう。それは公孫氏の滅亡後の時期で、その後の呉の制圧のため、卑弥呼と魏の遣使が手柄を作れるような構想をしていたのだろう。狗奴国が東にあるのでは卑弥呼の倭国への援助は、効果が薄れてしまう。南にあるとしている狗奴国というのは幻だったものと思う。呉との関係があるのは倭国東の倭人の国で、呉の銅鏡が出ている。
神戸市の夢野丸山(ゆめのまるやま)古墳で見つかった「重列式(じゅうれつしき)神獣鏡」に注目して、倭人と呉のつながりを指摘されいてる。この鏡は、画文帯神獣鏡と同じように神仙と霊獣を表現。江南の浙江(せっこう)省で、227年か228年ごろに作られ、230年代に倭に持ち込まれた可能性があるという。これは、卑弥呼が魏に朝貢し、その返礼として銅鏡100枚などを受け取った時期とほぼ一致するそうです。重列式神獣鏡の中には、呉の年号が記された鏡もあるようで、この鏡を呉の鏡と推定するという。
その他にも
238年 - 呉の「赤烏元年(238)」の紀年銘を持つ画文帯神獣鏡出土する(山梨県西八木郡鳥居原きつね塚古墳)。
244年 - 「□烏七年」の紀年銘を持つ画文帯神獣鏡が、兵庫県宝塚市の安倉古墳から出土している(呉の赤烏七年)。
など呉の鏡が出ていて、呉の情報が卑弥呼 倭国の東の国には入っていたようだ。
狗奴国とされる範囲からはこうした呉に関係する銅鏡などは出ていない。

 

 古墳時代以前の北九州 倭国 女王国 では巨大古墳は無く、チャイナの魏国墓制の規制に近いそれほど大きくない墳丘が存在したようだ。
それは平原王墓や祇園山古墳のようなものになる。
 祇園山古墳 棺の方位は逆シリウス方位の古墳 弥生時代なら墳丘というどちらなのか

 

女王国というように、女系が強いのか 男系では無いようだ
また逆シリウス方位を取っていたようだ

巨大な古墳が作られるように成ったのは騎馬民族によるものでは
列島の縄文、弥生文化の伝統とは異なるものと考える

また魏の規制から外れる巨大な古墳 
列島文化の延長上の九州、魏からの文化からも、弥生時期に巨大な墳丘は無い

畿内を中心とする地域では、銅鐸国が存在していたが、騎馬民族の侵入により倒されて、纏向に邪馬壹国ヤマト が成立したのではないか。
各地に存在した部族と騎馬民族の部族などが、纏向に集合して、ここから纏向の巨大古墳文化が始まったのだろう。

縄文、弥生文化とは異なる古墳文化は、騎馬民族のものだろう、前方後円墳の時代、前方後方墳の時代は騎馬民族のものとする以外に理解できないのではないか。

その勢力は
三国呉の逃亡勢、公孫氏の逃亡勢などの勢力なのだろうか
公孫氏滅亡後 女王国もヤマトもチャイナと交渉を持って銅鏡などを受け入れるようになった。
纏向までの弥生時代 銅鐸国には銅鏡は入っていないようだ
その後纏向は呉の逃亡者も加わり成立 三角縁神獣鏡が作られるようになったのではないのか

騎馬民族のヤマトは西日本を制覇して倭国 女王国 まで征服、そして倭国の銅鏡文化を取り込み三角縁鏡を制作して政権に参加する各地の部族に配布したのだろう。

古墳時代後期にはシリウス方位の巨大古墳が現れそれが席巻していたようだから騎馬民族により主導権が握られていったものなのだろう。
このような流れで弥生から古墳に掛けての歴史は作られてきたもの思われてきた。邪馬台国は無く、邪馬壹国がヤマト政権だったのだろうと言うお話で、邪馬臺国は幻なのではということでした。

図はお借りしました

引用ーーーーーー

倭国は元々男王が治めていたが、国の成立(1世紀中頃か2世紀初頭)から70-80年後、倭国で長期間にわたる騒乱が起きた(倭国大乱の時期は2世紀後半)。そこで卑弥呼という巫女を王に共立することによって混乱が収まり、邪馬台国連合が成立した。弟が彼女を補佐して国を治めており、他に官として伊支馬、次に彌馬升、次に彌馬獲支、次に奴佳?を置いていた。戸数は七万余戸あったとされるが、誇張ないし伝聞基づくものとする意見もある。

女王は魏に使節を派遣し親魏倭王の封号を得た。もとから狗奴国とは対立しており、狗奴国との戦いがあった時期から間もなく248年頃に卑弥呼が死去し、男王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず、卑弥呼宗女の「壹與」(壱与)または「臺與」(台与)が巫女女王になることで連合国が収まった。壱与女王は266年に晋の武帝に遣使、朝貢している。なお壱与の治世時期は、近畿ヤマト王権では崇神天皇治世時期に重なるとする説もある。

なお、倭人伝中に出現する表記上は、「邪馬台国」は1回に過ぎず、「女王国」が5回を数える。邪馬台国と後のヤマト王権の関係、邪馬台国の位置については諸説ある。一般的な読みは「やまたいこく」だが、本来の読みについても諸説がある。
ーーーーーー

 

 

2022.02.17  追加しました。

伊都国の平原王墓は邪馬台国時期よりも古い時期のものになるようだとしていたが、木棺の使用から、古墳時代の初めに位置するもののようだ。

 

北九州伊都国地域では東海、瀬戸内からの土器が発掘されていて、伊都国と関係があったことが分っている。それに対して、畿内系の土器は出ていないというので関係は薄そう。
さらに香川や徳島地域は吉備など瀬戸内勢力とは土器などから見て関係がなく、畿内との関係は深いという。

纏向では伊都国地域で出ていた瀬戸内や東海からの土器も出ているのに対して、北九州からの土器はほぼ出ていないようだ。

 

となると、瀬戸内や東海勢力の動向がこの時期の邪馬台国の運命を支配したのだろうか。
平原王墓は立春方位のようなので、纏向石塚古墳と方位が同じ。

 

この時期以後邪馬台国の名は出てこなくなることから滅亡したものと考えると、
邪馬台国の滅亡は纏向石塚古墳の建設以前なのか以後なのか。


その後立春方位の古墳はホケノ山古墳を最後に作られていないのではないか。纏向も廃止されているから・・・

2022.02.17 追加しました。
その後の調査から
三角縁鏡の出土は古墳時代 ヤマトの形成後のものなのかと考えるので、

邪馬台国は魏との交流があり
ヤマトは南朝との交流が有ったようだという推定がされているから、
南朝模様の三角縁鏡はヤマト政権の成立を示すのだろう。

この時期は文字は模様としか見ていないようなので、
古墳から三角縁鏡の出土するものがその政権グループのものとなり
以後全国的に前方後円墳 古墳が作られる時代となり、三角縁鏡の出土する古墳が作られたのだろう

邪馬台国が九州にあったとしても古墳時代には前方後円墳の時代となるので、
この時期までには邪馬台国は滅亡していたものと考える。
この歴史が記録される時代にはまだ成っていない。

桜井茶臼山古墳、大和天神山古墳からは三角縁鏡の出土は無く、ヤマト政権成立以前に作られたものなのだろう、邪馬台国との争いの時期ころなのか

黒塚古墳には三角縁鏡の出土があり、ヤマト政権の時代と思う
ホケノ山古墳以後、行燈山古墳は立春方位のようだからこれがヤマト政権成立以後、立春方位の太陽暦勢力の最後なのだろうか
纏向石塚古墳はヤマト政権成立以前で邪馬台国の滅亡以前の頃なのだろう

 

写真はお借りしました


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