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モースは、縄文土器は器形と文様が無限とも言うほどにバラエティーに富み、口縁が突起をもったり、波状にうねったりする自在さに驚きを隠さなかった。
突起こそが縄文土器を縄文土器たらしめている必須の属性である。
そもそも、突起が縄文土器の歴史に登場するのは草創期の最古の土器群の中にまで遡り、新潟県室谷洞窟の多縄文系土器には明瞭な波状口緑もある。
しかし、突起と波状口緑は順調に継承、発達することはなかった。
やがて早期に入ってからも、その初頭の撚糸文系土器は一切突起を付けなかった。
中葉の押型文土器および貝殻沈線文系土器に現われた突起が後続の土器様式に継承され、それ以降縄文土器の主要な属性へと成長し続けるのであった。ーーー
草創期の土器は 早期の土器は
土器の形からはかなり違う印象があるので、人種が変ったのだろうかと思う。
その上早期の最初は突起を付けていないと云われているから。
早期の半ば以後に突起が現れ、その後は継続している様だから、
縄文早期の中葉、ここからが突起の始まりとなるのだと考えた。
早期土器の突起は6と4がある。
このようになっているので、神秘数6、4 から、太陽暦も太陰暦も
縄文早期 7000年以上前からもっていたと思って良いのだろう。
縄文文化は縄文早期から太陽と月の暦を持っていたと改めて再確認できたので、雑穀栽培や海辺の海産物の採集に必須のもので、活用されたのだろう。
この突起の形状については私としてはこれまで見てきたところから
突起状のものは太陽暦を示し、波状のものは潮の干満との関係がある太陰暦と考えている。
多くのものはその後も波状のものは6と12が多い。
このようにして突起は縄文人だけのものであり、それは太陰太陽暦などのような折衷した暦ではなく、真正の太陽暦と太陰暦を持っていたことを主張しており、暦はエジプトやメソポタミアよりも2000年以上早く開発していたと考えた。それは現代人がやっと到達できた暦を7000年以上前に成立させていたと言うことになるものと思う。それはその後に出てくる神秘数3 があることから分る。
写真はお借りしました
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国際シンポジウム「東アジア世界における日本基層文化の考古学的解明」
公開日: 2006/10/31
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國學院大學21世紀COEプログラム第1グループでは、日本基層文化の東アジア史的位置づけを明らかにすることを目的に、「東アジアにおける狩猟採集社会の文化と縄文文化」・「東アジアにおける農耕社会の文化」・「東アジアにおける青銅器祭祀」を主要な考古学的な課題として、これまでロシア・中国・韓国をはじめ国内外各地において調査研究を実施してきた(参照:國學院大學21世紀COEプログラム考古学班刊行、21COE考古学シリーズ1~7、平成15(2003)年~平成18(2006)年)。
平成18(2006)年9月30日(土)・10月1日(日)の両日にわたって、國學院大學渋谷校舎120周年記念2号館1階2104教室において開催した今回の国際シンポジウムでは、国内外第一線の研究者を招聘して、最新の研究成果に関する意見交換をはかり、これまでの本学COE考古学関連調査研究成果を総括することを目的とした。
今回のシンポジウム開催に関しては、事前に一部新聞等でも報道されるなど多くの関心が寄せられ、当日は天候不順にもかかわらず両日の合計で約300名の参加者があり、成功裡に終えることができた。
当日の各発表題目と概要は、以下の通りである。なお、以下の概要は、阿部昭典・伊藤慎二・加藤元康・加藤夏姫・渋谷賢太郎・新原佑典・高橋毅・土屋健作・深澤太郎・山添奈苗が執筆し、伊藤慎二と山添奈苗が全体を取りまとめた。
「縄文文化の南の境界」 伊藤慎二(COE研究員)
縄文土器を特徴づける縄文施文と口縁部突起の世界的分布状況を検討し、口縁部突起の分布から縄文文化の独自性を明瞭に浮彫りにした。
そのうえで、縄文土器口縁部突起の時期・地域別出現状況を分析した結果、域外先史文化に面する「周縁部」的地域に限って口縁部突起の一時的衰退現象が見られ、縄文文化の範囲等を推し量る重要な指標となることを確認した。
なかでも、琉球縄文文化の土器口縁部突起存続状況の不安定性・特殊性は、主体的独自性の反映のみでなく、縄文文化とは異質の起源をもつことに結びつく可能性が存在することを指摘した。
「民族考古学から見た東北アジアの狩猟採集文化と縄文文化」 佐藤宏之(東京大学助教授)
縄文文化などの先史文化のダイナミズムを叙述することを目的に実施したロシア極東における一連の民族考古学的調査成果と、その課題を述べた。列島の先史文化の理解には、同様の自然環境を共有する極東ロシアの文化・社会・生活の諸相を解明することが重要である。たとえば、ロシア極東と縄文文化は、生業カレンダー・経済生業活動領域の基本構造が類似する反面、東日本の縄文文化で重要であったクリがロシア極東では欠落する点で食糧基盤に重要な差異があることなどを指摘した。また、縄文文化の人口復元研究にあたっては、民族誌的観点のみではなく、歴史的観点からの検討も不可欠であることを述べた。
「東アジアの中の縄文文化」 大貫静夫(東京大学教授)
縄文土器や縄文文化の大陸起源論あるいは系統論というのは、日本列島周辺の大陸考古学に精通すればするほど、そのような課題に答えることの困難さを深く認識するようになる。そうした中で、はたして縄文文化は日本列島固有のものであるのか、縄文文化と周辺地域の文化との境界をどう捉えるかということが、非常に重要な問題であることを指摘した。日本列島における縄文文化の位置づけ、さらには大陸の新石器文化からみた縄文文化の位置づけという二つの視点から文化の「連続性」と「不連続性」を検討し、土器・石器・気候・植生の比較に基づいて東アジアにおける縄文文化の位置とその特色を述べた。
「韓半島尖底櫛文土器社会の動態と東北アジア新石器文化の広域変動」 イム=サンテク(林尚澤)(韓国:(財)韓國考古環境研究所助教授)
韓半島尖底櫛文土器文化の変動を、東北アジア新石器文化の中で理解することを試みた。筆者の提示した編年案をもとに、道具組成・住居址・集落の構造・生業形態等の動態に着目し、初期農耕の受容・周辺地域への展開・小規模集団の拡散・集団の瓦解現象といった具体的な文化変容状況を明らかにした。その上で、遼西・遼東・吉長地区・黒龍江南部および沿海州の文化動態との比較を行なった。これらの分析の結果、器形の側面では独自性が強いと考えられていた尖底櫛文土器文化も、社会全体の変化は周辺地域と密接な関係をもって連動していることを指摘した。
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続・竹林の愚人
縄文の思考
BOOK
2012/09/2107:00 0 -
縄文の思考 (ちくま新書) 縄文の思考 (ちくま新書)(2008/04)
小林 達雄
モースは、縄文土器は器形と文様が無限とも言うほどにバラエティーに富み、口縁が突起をもったり、波状にうねったりする自在さに驚きを隠さなかった。
突起こそが縄文土器を縄文土器たらしめている必須の属性である。
そもそも、突起が縄文土器の歴史に登場するのは草創期の最古の土器群の中にまで遡り、新潟県室谷洞窟の多縄文系土器には明瞭な波状口緑もある。
しかし、突起と波状口緑は順調に継承、発達することはなかった。
やがて早期に入ってからも、その初頭の撚糸文系土器は一切突起を付けなかった。
中葉の押型文土器および貝殻沈線文系土器に現われた突起が後続の土器様式に継承され、それ以降縄文土器の主要な属性へと成長し続けるのであった。
ともあれ、容器は突起など必要とはせず、疑いもなく余計な代物で、あること自体がモノの出し入れに邪魔にさえなっている。
その突起を縄文土器は口緑に大きく立ち上がらせて泰然自若としている。
また、縄文土器が底から口を結ぶ器壁に不必要なほどに変化をみせるプロポーションは、もう一つの際立った特徴である。
すぐに倒れて、せっかくの内容物が外にこぼれ出てしまいかねず、容器としての本分を度外視しているのだ。
それに輪をかけて、これでもかと言わんばかりの大仰な突起をかぶせる。
なかでも中期の勝坂式や曾利式、火焔土器の各様式はもう常軌を逸している。
縄文土器は土器の造形において、とくに世界に冠たる独自で個性豊かな展開をみせたのだ。
改めてこの事実に目をとめたのが岡本太郎で、「ここに日本がある」と叫ばしめた。
器の形態全体のプロポーションの異常なまでのバラエティーと、その大仰な突起は容れ物の城を超えており、「容器放れ」した性格を矯正しょうとする素振りさえ見せず平然としている。
縄文土器とはそういう性格のものなのである。
縄文土器は、飾って、眺めるために作られたのでは勿論ない。
土器の内外面には、しばしば食物の残り滓が焦げついていたり、煤の付着や火熱による二次的な変色が底部にみられ、食物の煮炊き用に供されたことを物語っている。
縄文土器の草創期前半では土器の製作量はそれほど多くはなかったが、次の早期になると、たちまち製作量は増加し、遺跡には著しい数が残されるようになった。
本格的な農耕をもたない社会としては世界のいかなる地域と転べても断然際立って多い。
そもそも自然界にある食料には、火を通さずに口にすることのできるものは限られている。
ドングリ類がやがて縄文人の主食の一つに格付けされ、食料事情が安定するのは、まさに土器による加熱処理のお蔭である。
煮炊き料理によって、植物食のリストが大幅に増加し、動物性蛋白質の摂取に偏っていた食生活のバランスは栄養学的にも向上した。
こうした植物食の拡大充実は、縄文人の食生活の安定に大いに寄与するところとなった。
植物食の開発と利用の促進によって食料事情は旧石器時代の第一段階当時とは較べものにならないほどに安定した。
まさに第二段階の縄文社会が、大陸における農業を基盤とする新石器社会の連中にも負けをとることなく、堂々と肩を並べるほどの、文化の充実を保障した有力な要因は、煮炊き料理の普及にあったのである。