縄文人は太陰暦と太陽暦を繋ぐのに朔旦立春を利用していたものと考える。
それは
引用ーーー太陰太陽暦は、世界の各地で独立に発生している。すなわち、バビロニアで、インドで、中国で。そして、それぞれ似たような発達をとげている。太陽暦のもとを作ったエジプト暦にしても、一ヵ月を三〇日にしていたから、初期には何らかの形の太陰太陽暦であったと思われるし、また、ローマも古くは太陰太陽暦を用いた時代があったことは前にのべた。ーーー
太陽と月という独立した天体の周期を、権力が無理矢理くっつけて暦を支配し、権威を示そうとしていたからであり、中央集権の無謀を示していることになる。
それにしても何処でも太陽暦の成立経緯が明確に出来ないようだから、世界の古代文明の暦は、縄文人の開発した太陽暦が伝来して、それをもとにしているのでは無いかと思う。
金生遺跡 立春観測配石
縄文人は国のようなものを作れず、集落共同体のような小さな社会を分散的に作っていたのだと思う。
金生遺跡で朔旦立春の観測をして太陽暦と太陰暦の日時を一致させるだけで良かったものと考える。これは中央集権政権が来たときには大変邪魔なものになっただろう。時を支配するため、支配権力はこの天文台の働きを廃止し太陰太陽暦という支配権力の利用しやすい複雑で難しい暦に変えていったものと考える。しかもそれは半年一年暦であった暦を一年暦に変えていったものと思う。
メトン周期は、観測せずに計算で暦の整合性を保とうとするもので、立春の日の出観測と、朔旦立春の観測をすればいいだけの話である。
お陰でこれまでのシュメール以後の歴史は、支配権力により翻弄されてきた。
金生遺跡の天文台機能は現存するので、ここを世界の天文台の基準とすれば良いのでは無いでしょうか。世界遺産にするならいっそ世界の標準時を、古代以来の標準時があるここに持ってくると言うのはどうでしょう。環境問題など地球の生態系存続が問題になっている今、きっと人類史の画期と出来るものと考える。
引用ーーーーーー
7 太陰太陽暦と農業
(pp. 112-114)
月の満ち欠けにも、季節の変化にも、等しく配慮をはらったこよみが太陰太陽暦である。顕著な周期である月の朔望を尊重し、かつまた、農業などを行ううえから季節を無視することのできなかった地方に、必然的に発達したこよみである。
したがって、太陰太陽暦は、世界の各地で独立に発生している。すなわち、バビロニアで、インドで、中国で。そして、それぞれ似たような発達をとげている。太陽暦のもとを作ったエジプト暦にしても、一ヵ月を三〇日にしていたから、初期には何らかの形の太陰太陽暦であったと思われるし、また、ローマも古くは太陰太陽暦を用いた時代があったことは前にのべた。
置閏法 チグリス、ユーフラテスの両河のほとりに栄えたメソポタミア支明の中でも代表的なバビロニアは、西暦紀元前三〇〇〇年ごろに、現在も用いられている星座の原形を作った民族の建てた国であるが、古くから太陰太陽暦を発達させていた。そして、西暦紀元前八世紀には、一九年に七回のうるう月を置く「置閏法[ちじゅんほう]」を発見していた。
メトン周期と一九年七閏の法 ギリシアでは、はじめ、八年に三回のうるう月を置く方法が行われていたが、西暦紀元前五世紀の天文学者メトンのときに、一九年に七回のうるう月を置く方法が採用された。一九年は、太陽年のはじまりと、朔望月のはじまりが、かなり正確に一致する周期で、メトンの名をとって「メトン周期」とよばれる。
中国でもこのことは知られていて、一九年のことを「章」とよび、「一九年七閏」の法と称して、西洋と同じく一九年に七回のうるう月を置くことが、西暦紀元前五世紀ごろから行われた。
一朔望月は二九・五三〇五八九日であるから、二九日と三〇日の一ヵ月を適当に置き、一日が朔とあまりズレないようにしていくことは、太陰太陽暦でも第一の問題点である。しかし、太陰太陽暦の、同様に重要な問題点は、季節と調和させることである。
一年を一二ヵ月とすると、三五四日ないし三五五日となり、一太陽年に一一日ほど足りない。ほうっておくと、月[マンス]と季節がどんどんズレてイスラム暦のようになる。そこで、ときどき「うるう月」なるものを入れて、一三ヵ月の年を作り、季節と合わせる。これが、一般的な太陰太陽暦の暦法である。
問題はこれをどのように入れるかだが、八年に三回置く方法では、この間の月数が九九ヵ月、平均日数が二九二三・五日であり、一方、八太陽年は二九二一・九日であるから、一・六日多すぎる。つまり、八年につき、一・六日ずつ季節が早くなる。
中国で行われた一九年七閏の法では、一九年間の月数が二三五ヵ月で、平均日数は六九三九・六九日、一方、一九太陽年は六九三九・六〇日であるから、一九年間で、わずかに〇・〇九日多すぎるだけである。約二二〇年で一日季節が早くなるだけだから、非常に正確ではあるが、これで決して満足してはいなかった。
朔のズレない、季節のズレない、そして天文現象をよく予報できる、さらに精密な暦法が、中国数千年の歴史を通じて求め続けられた。そして、その努力は、太陰太陽暦を中国から輸入したわが国でも、同様に行われた。他の国では、それほど精密な太陰太陽暦を、もとうとはしなかったようである。おそらく、月と季節とがズレてくれば、その都度、適当にうるう月を入れて調節したのであろう。あるいは、そんな季節とのズレが目立つ前に、国が亡びてしまったという場合もあろう。