茅が岳の峰を基準に、立冬から立春までの日数の観測
91日となる
91日/2 45.5日 これが立春から遡る冬至の日の確定
立春を見てから新年の暦が作られる
次に立夏から立秋まで日数は同様に91日数える
91日/2 45.5日が夏至の日
立秋を見てから後半半年の暦を作ることができる
縄文時代には中期まで、これを繰り返していたのだろう
そこに45.5日/3 15日の区切りが考えられて
半年12弦の暦 太陰暦とシンクロすることが判明する。
これで立春の太陽暦起点の観測により月の暦との正確なシンクロが執れることになった。
この暦の成立で縄文時代の各地方の社会との交流は非常に容易になったものと考える。
特に内陸と海辺の人々にとって、ここからの暦は相互の換算が簡単正確になった。
その事をもたらしたのは 1/3 という操作にあったことから、3 は月と太陽という二つの天体の動きを繋ぐ神聖な数として尊重された。ここから 3波状突起口縁の土器が作られ祀られたものと考える。
このために 3突起の土器はそれまで見えないような特別な飾りの付いた形をしているものが見えている。
その後内陸の暦は15日/3 5日刻みの暦が作られ季節の動きにより細かく対応することが出来るようになった。これが 七十二候のカレンダーである。
壊れても補修しながら使われていたという
海辺に近く、海の干満が生業に対して重要な地域では15日/2 7日刻みの暦が作られこれにより海の作業への対応が、より合理的に成ったのだろう。12月 週7日のカレンダーで、現在の暦とほぼ同様なものとなった。
これはシュメールの暦と同じような太陰暦である。しかしシュメールの暦と全く異なるのは、立春観測が行われていて、太陽暦とのシンクロが執れていることであり、月の暦であるのに季節の動きを正確に捉えていたことである。
縄文時代晩期にはこのようなレベルまで暦は進化していたと考えるが、大陸からの勢力の到来から、暦は支配者の道具として操作するのに都合が良い、冬至夏至を重要視するものとかえられ、作るのに難しく不正確な暦に変えられて行くことになったものと思う。そして季節の始、春の初めの立春正月から原理の分らない冬至に近い現在のような正月になったものと思う。
写真はお借りしました