縄文人の暦文化最高 再考 再興
0.二至二分が分っていたと言うことは、どういうことなのか。
金生遺跡は立春の日の出の観測と、冬至の日没を観測する立地にあることが分った。
立春が分ると言うことには、どんな意味があるのか、この事に関係する各所に問い合わせたが、誰も教えてくれる人は居なかった。
仕方ないので、世界各地の古代文明の暦に関する解説を調べたところ、太陽観測を行っていたことを示す遺跡の形跡が乏しいことが分ってきた。
そうしたことから太陽観測の結果を考えることになってしまった。
冬至と夏至の時期は、ストーンヘンジなど世界各地に遺跡が残されていて古代人にとっては直ぐに分っていたということが知られる。
春分と秋分は一年の日数を数えて初めて分るものであることと思う。
365日 冬至から夏至まで183日、夏至から冬至まで182日
二分とは 183日/2、182日/2 91日が春分と秋分となる
立春は「四立」の一つで 91日/2 45日
金生遺跡の立地は冬至からの45日目の日の出を観測する位置にあった。
図はお借りしました
ここまで分ると以下のことが分ることに成る。
先ず月の満ち欠けの周期 30日 古代人は最初に分ったという。
これは太陽から 91日/3 30日 一月の日数に合う
365日/30日 月の満ち欠けは 一年に 12回 つまり12ヶ月
30日/2 15日 上下弦の半月
これが太陰暦の基本 縄文人もこれは知っていたはずでしょう。
朔旦立春の機会で太陰暦とのこの整合は、確認していたはずと考える。
45日は 30+15日とも 45日/3 15日
30日/3 10日 一月の内の上中下旬
30日を1ヶ月とする一年か、15日を一月とする 半年一年暦、二倍年暦とするか
15日/2 7日 一週間の日数となる
二至二分の暦が確定することからは、このような日数が割り出され、暦の基本が全て揃うことが分る。どのような区分の暦を作るかは生活の必要に応じて適当に構成出来る。
図はお借りしました
1.縄文前期に二至の暦に辿り着いた縄文人は、縄文中期には二至二分が分っていて、それを示す遺跡が山梨に残されていた。
縄文後期初めには、季節の区分「四立、八節の暦」「二十四節気の暦」の区分をすること、「太陰暦」と太陽暦との対応も、金生遺跡の立地を選定した、天才的シャーマンには既知ものだったと考える。
2.同時代の世界各地の古代文明の持つ暦の歴史を見た時、暦のベースとなる次の数字は、根拠が明確になっているとは思えなかった。
それは365日、183日、91日、45日、30日、15日、7日というものについてです。
これらは全て太陽観測により得られるもののはずなのです。
3.こうしたことを明確に示す古代遺跡は、今の所縄文後期の遺跡とされる、金生遺跡の立地のみです。
太陽観測で基本数字が分れば暦の組み立ては必要に応じて作れば良く、工夫次第です。
しかしその正確性を維持するために、やはり太陽の観測により担保することになります。
それは立春観測という一点があれば可能となります。
縄文人は4500年前にこれを観測する太陽観測の天文台、金生遺跡を残してくれていたのです。
残念なことに現代人は縄文人の残した太陽暦の基本を忘れてしまっていました。
気候変動、持続可能な文明のベースは、なんと言っても季節変動の根底にある太陽暦に有るのでは無いでしょうか。
縄文人の暦は弥生文化人や古墳時代の人々の侵入により崩壊してしまったということなのでしょうか。
現在知られる暦の歴史からは、飛鳥時代以後になって、大陸から暦は導入されたものであるように見えます。