夏島貝塚について、尖底土器や貝塚、その他多数の遺物についてもう一度調査してみた。
縄文土器と縄文時代は夏島貝塚の時期がその始まりと考えて良いのでは無いか。
ここからそれまでの狩猟採集の生業に加えて、縄文時代の文化的要素が整って行くことになった。
撚糸文系土器、貝殻沈線文系土器、貝殻条痕文系土器
その中には農耕の開始と太陽暦の開発、太陰暦の開発もある。
供献土器の始まり
縄文時代前期はそれが継承されて文化が花開いて行ったものと考えることができる。
早期(1万~6,,000年前): 気候の温暖化により海面が上昇して「東京湾」が形成され、漁撈活動が活発になり沿岸部に「貝塚」(神奈川県夏島貝塚、世界最古の土器年代、9,500年前)が多数残された。
府中市武蔵台遺跡では、野川に面した国分寺崖線上に、撚糸文土器期の「大規模集落跡」(24軒)が構築された。「貝塚の出現」に特色がある。貝塚の形成は、干満を知る暦が出来たことを示すものと考えるので、太陽暦と太陰暦の基本が出来たものと考える。
夏島貝塚では、撚糸文系土器、貝殻沈線文系土器、貝殻条痕文系土器という早期から終末までの土器が層位的に出土していること、さらに小型の土偶が作られている。
漁撈具としては骨類の長さ2.5cmの釣針とその未製品が出土していて、すでにこの時期に釣針を使った漁撈技術が出来ており、釣針も鹿角製で、釣糸掛用の突起のあるものや大型の釣針が出現するなど、漁撈の多様化が認められるという。そして沖合への漁撈活動を示す。とされている。
夏島貝塚の土器は1万1000年前のものという。
そのため旧石器時代と縄文との間に長い空白時間ができ、縄文時代草創期という新しい期をおくことにした。ということである。
草創期の土器はかけらまで集めてこの程度しかある
草創期の土器は整理できるほどのものでは無い、一方展示できる土器は2%
草創期というのは、定住が始まってはいたものの、安定した生業はまだ確立できず、土器が作られ始めてはいたが、作られる数は少なく、用途もまだ定まっていない。栽培も始めていただろうが、試行錯誤段階で、何れの要素も芽は出ていたが、縄文時代が始まるまでの準備期間と、旧石器時代の延長上にあることで、大した変化は始まっていなかったものと思う。
図はお借りしました
引用ーーーーーーーーーーーーーー
早期(1万~6,,000年前): 気候の温暖化により海面が上昇して「東京湾」が形成され、漁撈活動が活発になり沿岸部に「貝塚」(神奈川県夏島貝塚、世界最古の土器年代、9,500年前)が多数残された。府中市武蔵台遺跡では、野川に面した国分寺崖線上に、撚糸文土器期の「大規模集落跡」(24軒)が構築された。「貝塚の出現」に特色がある。
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縄文早期の南九州は、特有の貝殻文円筒土器の時代を迎え,森林環境に適応した生活が発達した。縄文時代早期初頭の霧島市の上野原遺跡や鹿児島市の加栗山遺跡,松元町の前原遺跡など遺跡では,上からP13(アカホヤ火山灰)の次のP14(薩摩火山灰)の上に掘り込まれた竪穴住居跡が発見された。
壺形の土器などをもつ縄文時代早期の文化が育まれた。
鹿児島県霧島市にある上野原遺跡(うえのはら いせき)は、早期前葉から中世までの遺跡群を含む複合遺跡である。この遺跡は日本最古(縄文早期前葉の約9500年前)の大規模な定住集落といわれている。半環状に配置されている46棟の竪穴住居をはじめ多数の遺構が発見された。竪穴住居が1万3000年前の桜島噴火の火山灰テフラ(降下軽石)P14 (薩摩火山灰)の上に建てられていることから、草創期の後に集落がつくられたことがわかる。その後、竪穴住居跡の上に、7300年前の鬼界カルデラ噴火のテフラP13(アカホヤ火山灰)が堆積していることから,この噴火で南九州の縄文人は全滅したことになる。
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約1.5万年前から1.2万年前
この頃、神奈川県内に縄文文化が現れる
①上野遺跡・第 1地点(大和市)では、隆線文土器出土層より下層から、細石刃石器と共に無文系の土器片が出土している
②宮ヶ瀬遺跡群・北原遺跡(愛甲郡清川村)からは、旧石器時代終末期の槍先形尖頭器などと共に土器片(無文系)が見つかっている。
③花見山遺跡(横浜市都筑区)では、隆線文土器を中心に1400点以上もの土器が出土している。
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約1.2万年前?7000年前
この頃、神奈川県内には遺跡数が増加、相当規模の集落や貝塚なども現れる ①大塚遺跡(横浜市都筑区)や ②夏島貝塚(横須賀市)③子母口貝塚(川崎市)など。
1950年・1955年に調査された夏島貝塚の縄文時代早期の層から出土したカキ殻と木炭でした。この測定の結果、縄文時代早期として9500年前という年代がはじめて示され、縄文土器が世界最古の土器文化である可能性が指摘される一方、それがエジプトやメソポタミア、インダス、黄河文明という世界の4大文明の発祥年代を上回る年代であったことが日本の考古学者の多くを驚愕させました。
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横須賀市夏島にある縄文時代早期の夏島貝塚は、日本列島の中でも最も古い(約9500年前)貝塚で、砂泥の干潟に生息するマガキとハイガイを主とした第1貝層からは、魚類ではクロダイが最も多く、次いでマゴチ・スズキ・ハモが多く出土している。
漁撈具としては骨類の長さ2.5cmの釣針とその未製品が出土している。すでにこの時期に釣針を使った漁撈技術が出来ていたということである。
夏島貝塚でも第一貝層より少し新しい第二貝層は、砂地の海岸に生息するハマグリやアサリを主としたものになり、海の環境が変化していったことが窺える。
釣針も鹿角製で、釣糸掛用の突起のあるものや大型の釣針が出現するなど、漁撈の多様化が認められる。
横須賀市吉井にある吉井貝塚は、マガキやハイガイを主食とする早期末の貝層と、岩礁海岸に生息するスガイやイシダタミを主とする中期後半の貝層がある。
早期末の貝層は厚さが2mもあり、出土した魚骨の種類・量とも豊富で、なかでもマダイが最も多く魚全体の52%を占め、次いでボラ・クロダイ・ブリ・スズキと続く。マダイの体調は35~50cmのものが75%を占め、他の魚も大き目のものが多い。ところがこれらの魚は、時期が新しくなるにしたがって小型化する。マダイで中期の貝層から出土したものは、30~40cmのものが中心となる。
漁撈具も、数多く出土している。最も多いのが鹿の角や四肢骨などで作ったヤス先と釣針である。釣針は大型と小型のものがあり、大型のものは軸が太く長さが6cmにもなる。体調が60cmを超えるブリやマダイが多く出土していることから当然ともいえる。
ヤスはヤス先が1本のものと共に、この時期にペン先形をしたヤス先を2・3本組み合わせたものがある。また、出土したスズキの厚い鰓蓋骨の中には、ヤスで突いた痕が残るものも出土している。
三浦半島の縄文時代早期の貝塚の厚い貝層や出土した動物遺体を見ると豊かな海の幸に恵まれていたように思える。しかし、横須賀市若松町の平坂貝塚から出土した人骨に残された、11本の飢餓線や変形関節症の痕などから、不安定な厳しい生活であったことが窺える。
夏島貝塚や・平坂貝塚は「水産日本」原点とも言うべき遺跡である。
早期 神奈川・夏島貝塚の土器 9000年前 → 実は1万1000年前
・夏島貝塚(横須賀市、最古級の貝塚)から撚糸文系土器や貝殻条痕文系土器が出土、沖合への漁撈活動を示す。
貝類の採集
縄文人が貝類を食糧資源・装飾品の原料として採取するようになったのは縄文早期前半で、代表的な遺跡として横須賀市の夏島貝塚が挙げられる[44]。縄文早期の半ばには瀬戸内海沿岸や東北地方でも貝塚が形成されるようになる。採取対象は当初は河口等の汽水域に生息するヤマトシジミであったが、やがて内湾干潟の牡蠣礁で得られるカキや、やはり内湾の軟泥干潟から容易に得られるハイガイなどにその中心は移る[45]。
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縄文時代早期(約1万年~6,000年前)前半は、有楽町海進によって海域が拡大していく時期にあたり、貝塚の形成が始まる。この地域最古といわれる夏島貝塚(神奈川県横須賀市)は干潟に生息するマガキとハイガイを主体とし、クロダイ、マゴチ、スズキ、ハモなどの骨が出土した。骨製釣針も出土しており、既にこの時期に高度な漁撈技術があったことが窺える。
東京湾東岸には汽水性のヤマトシジミを主体とする取掛西貝塚(千葉県船橋市)が形成され、クロダイ属、ボラ科、ニシン科、コイ科の魚骨が出土し、海水から淡水に至る広い範囲で漁撈活動が行われていた。縄文時代早期後半になると貝塚数は増加するが、数は未だ少ない。
夏島貝塚から撚糸文系土器、貝殻沈線文系土器、貝殻条痕文系土器という早期から終末までの土器が層位的に出土した。
小型の土偶が作られる。
貝塚 貝塚は、この時期の前半には、海が進入して出来た海岸地域に作られていた。
貝塚はヤマトシジミが主体であった。
狩猟とともに漁労が活発化した。最古級の神奈川県横須賀市夏島貝塚、千葉県香取郡神崎町西之城貝塚。
押型文土器期に属する愛知県知多郡南知多町先苅(まずかり)貝塚は海面下13メートルの深さから発見された。
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決定的だったのは、1956年の夏島貝塚(神奈川県)の年代測定による約9500年前というC14 年代だった。しかも黄島貝塚(岡山県)、福井洞窟(長崎県)、など続々と古いC14年代の例が増えていった(いまでは大平山元遺跡(青森県外ヶ浜町)の16000年前の土器片まである)。
そのため旧石器時代と縄文との間に長い空白時間ができ、縄文時代草創期という新しい期をおくことにした。
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■そもそも「はじまり」とは
他方、「縄文時代はいつから」を決めるための確かな方法の確立とは別に、「縄文時代の始まりとは何か」をめぐる議論が昔からあり、最近また静かな盛り上がりを見せつつあります。議論の焦点は、縄文時代の始まりを「土器の出現」をもってするか、「定住」をもってするかの二者択一となっています。つまり「土器派」と「定住派」とで対立しているわけです。
教科書では縄文時代は土器と定住とで始まると書いてあることが多いように思いますが、日本考古学の世界でその考えをとる人は殆どいません。明らかに土器の出現が早く、そして定住はそれから約5,000年も経ってから始まったことが分かってきたからです。これは上で記した放射性炭素年代測定法の進展によるものです。
現在の「縄文時代」は土器の出現で定義するのが普通です。「土器派」によると、そのほうが分かりやすく、議論の基礎的な操作性が高いからだといいます。言われてみれば確かに、縄文土器は列島の広い範囲で発見されているので、比較がしやすい利点があります。古い時期の土器が見つかった時点で、その地の縄文文化、縄文時代の存在が明らかになります。
しかし「定住派」からすれば、土器の出現が移動生活から定住生活へ変わった人類史的な大事件とはあまり関係がないことが分かった(年代が全然違う)以上、それをもって「縄文時代」を定義する意味がないといいます。定住は狩猟採集生活のリズムとパターンを劇的に変化させ、社会生活から観念世界まで、人間存在のありとあらゆる領域に大きな影響を及ぼしたと考えられるのだから、 定住の始まりから縄文時代が始まったというほうが良いというのです。「定住革命」という言葉を使う人もいるくらいです。
この二つの考えはどちらも重要です。土器の出現と定住の始まりとは、歴史上において共に重視すべき事柄であることは間違いないので、測る物差しの違いをわきまえ、相互の違いを具体的に表現していく必要があるように思います。「縄文時代はいつから」という議題は、年代だけでなく、その内容、事柄においても深い意味をもっていて、それだけで興味のそそられるトピックになりうるのです。