金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

縄文時代の画期となる歴史は、土器に書いてある

シュメール文明では、歴史は粘土板に文字で書き残されていた。

 

それより5000年以上前の縄文文明では、文字の発明は出来なかったものの、縄文時代草創期から、歴史を粘土で土器として造形することで残していた。

 


土器使用の初めは、煮炊きなどの実用を主とするものでは無く、祭祀用ないしは記録用として、供献土器として造られたと考える。
栽培するための種を湿気から守り、乾燥して安全に残すための豆粒文土器を造り
狩猟には弓矢を開発したことを隆起線文土器に造形、こうした土器が初期に造られていたと云うことを考えると、大変に手の込んだ丁寧に造られた作品と思う。

 


強い弓の弦を改良していった経過を細隆起線文土器や微隆起線文土器にまで造形
矢の先に付ける石鏃の高度化開発は、その様々な形を爪形文土器として記録
弓の弦用の紐は、更に高度化して、遂にテグス開発にまで到達していた
それは押圧文土器から多縄文土器、そして撚糸文土器になり
釣り針と釣り糸による魚釣りを生業と出来るまでに高度化していた

 


魚取りのためには撚り糸を利用して、魚網の開発も行って、それは遂に羽状縄文土器となったのではないか


鮭の遡上回帰の予測には太陽暦を開発、それは 2,4波状突起口縁の土器として
食料対象を画期的に広げることの出来る、煮沸用の土器まで開発して尖底土器を造りだしていた

 


海の生業である潮干狩りのためには、太陰暦を開発して、貝塚を残し、それは 6波状突起口縁の土器に記録していた。数は文字として記録するのではないものの、明確に数が分るような波状突起口縁の土器として記録していた。

 


ここまでが縄文草創期から早期までの縄文人の生業のための技術開発の歴史である。
今不明なのは農耕の歴史である。
縄文前期には 8波状突起口縁の土器が造られていることから、太陽暦を開発したことを記録していたと考えているので、その必要性は農耕であり、農耕が行われていたことは確実であると思う。
このように縄文時代の初め、草創期や早期には土器に生業開発の歴史を記録していたものと考える。

また博物館などで展示されているような良い状態で残されていた土器は、ほとんどが供献土器で、実用の土器ではないと考える。土器が実用になったのは尖底土器の開発からでは無いかと思う。

図はお借りしました

引用ーーーーーーーーーーーーーー


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