織田信長 画像お借りしました
織田信長は琵琶湖湖畔の安土に高層の天守閣を持った安土城を築きます。
それまで3層ほどの城はあったのですが、5層6階にも及ぶ高層の建物ははじめてです。その後の多くの城を見ているので、私たちはそれほど違和感はありませんが、はじめてその姿を見た人々は大いに驚いたことでしょう。
桃山時代の武将の城の象徴と言える天守閣はいったい誰が、どのような経緯で発想したのでしょう?
一つは中国の高層の楼閣、塔です。
安土城の天守閣の内装には中国の人物像が描かれました。
「安土山ノ記」を書いた妙心寺の南化玄興(なんかげんこう)の詩には
「阿房殿と同じように高い」
というように秦の始皇帝の宮殿阿房宮に比べています。
ただ、屋内の仏教的、儒教的な画題の上に信長がいるとすると、それらの上に立つという考えもあります。
もう一つは西洋の建築の影響です。これはまったくわかりません。しかし、安土城を建設する時に城下に宣教師の施設の建設を織田信長は許しています。信長は宣教師から多くの情報を得ていました。
そして、安土城が完成して、狩野永徳にそこからの景観を描かせて、それを屏風にしたててローマに送りました。西洋に城をアピールしたかったのでしょうか。
天主とはキリスト教の神ゼウスをさします。
「てんしゅ」は、殿主、殿守、守殿などを書かれたようですが、意外に天守という言い方は江戸時代に入って、とくに幕末にかけて多く用いられるようになった。信長のころは天主と書かれることがあり、それはキリスト教の主を指すと考える向きもあります。
さまざまな考えを現実化した信長の頭の中をのぞいてみたいものです。
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