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神宮の森とサクラダ・ファミリア

2014-01-13 01:41:44 | 日記・エッセイ・コラム

 <以下の文章は、かつて筆者が「スウェーデン社会研究月報(Vol. 26, No. 9, 1994)」に発表したもので、そのままMy blogに掲載する。>

 私の名刺箱の中に1枚の名刺が入っている。表面に今井兼次、早稲田大学名誉教授と、印刷してある。この名刺を私が頂いたのは、多分スウェーデン社会研究所と関係のある何かの会合の席であったと思う。どのような話、きっかけで名劇を頂いたのかは忘れてしまったが、背筋の通った、丈の高い老人の印象は今も脳裏に残っている。
 比較的最近、日本経済新聞の文化記事の中にたまたまイマイケンジという片仮名書きの名前を偶然読みとった。それは、ガウディのサクラダ・ファミリアに関する記事であった。日本経済新聞の某記者がサグラダ・ファミリアを取材した際のもので、「1928年にイマイケンジというワセダ大学の学生がガウディに会いに来た。とこるがその2カ月前にガウディは死んでいた。イマイは1963年にも来て聖家族教会のスケッチを残していった。それがこの絵です。」というのである。
 これは、その後に何かの機会に知ったことであるが、今井先生は、ガウディを日本に初めて紹介された方なのである。先生が1926年と1963年の間の37年の間にサグラダ・ファミリアの成長した姿をどのように見たのか、先生についてほとんど何も知らない私には想像すらすることはできない。
 私は、スペインに旅したことはないので、聖家族教会の姿を目にしたことはない。ただ、途方もない計画が石を一つずつ積み上げ、セメントを一塗り、一塗りしながら実現されていく様子を想像するのである。百年あるいは二百年の後に壮大な献堂式が挙行される様を想像するのである。ローマのサンピエトロ寺院もそのようにして建造されたのであった。
 話は少し飛ぶ。昨年私は、スウェーデンの矯正保護局を訪ねた。そして、職員研修所と矯正博物館とを見学した。その時研修所の地下塞に案内された。それは、なんとかつてのワインセラーであった。18世紀に建造されたその建物は、当時ワインの貯蔵、販売の店だつたのである。既に200年を騒て、なお現役である。勿論今はワインはなく、職員のための休憩室であるが、博物館ではなく、日常使用する建物である。
 数百年をかけて建物を作る、或は数百年にわたって建物を使用するというのは、欧州では多分当然のこと、常識なのだといってよいように思える。ストックホルムのアパートには、建造後百年以上たつものが相当数あるように思う。モの一、二を私は外から見たことがある。
 日本の建物は、木造が主流であった。法隆寺の建物が千年を経て、今なお健在なのは、それが木造だからであるという話を、私は何かの新聞記事で読んだことがある。コンクリートと鉄の建造物は十年もたないと。ただ、木は火に弱い。また、場所によっては腐食が進むのも速い。そのせいか日本では建設後2~30年すると趣物を建て替えるという風習があるように見える。また、その頃になると住人の方も代がわりして、新しい世代が新しい住居で新しい生活を始めることもある。この発想が、鉄骨建造物を主流とするようになった現在のいわゆるマンションに通用するのかどうか、考え直す必要はないのであろうか。いろいろ事情はあったと思うけれども、昭和30年代に建築された公営アパートは、現在建て替えの時期に来て、さまざまな問題を生じているという。
 ここでまたスウェーデンを例に引いてみたい。これも日本経済新聞に連載されていた記事であるが、ビャネール・多美子さんによると、「まず30年代の世界大恐慌時代、失業と住宅事情改善の為に住宅の百万戸建設を打ち出した。そして小さいが水準の高い建物を建てた。娘のアパートはその時代に建てられた。百年以上もたっているというのにびくともしない。広い廊下は大理石、階段にはしゃれたてすりがついている。」というのである。つまり、百年以上にわたってこの住宅をみんなが使うのだという意志が公営住宅の中に明確に表現されているのである。このような発想を建設省や大蔵省、或いは我々日本人はどうしてすることができないのであろうか。いまはやりの定期借地権つき分譲マンションにはこの発想が完全に欠落している。また、住宅取得控除を新築のしかも購入後数年しかみとめないという制度にもこの発想は欠落している。むしろ、一度購入した住宅は一生の買物として考え、長期保有者にこそ控除をみとめるべきではないのか。家をただ粗末にせよといっているようにさえ、私には思えるのである。
 昨年、伊勢神宮の式年週宮が行われた。干数百年にわたって20年ごとに行われてきた国民的な行事である。ここには、同じものを永久に残そうとする強い日本人の意志が現れている。掘立て柱の神殿は腐食が速い。それ故に同じものを同じ場所に建てることで、強い信仰心を維持してきたということができよう。20年ごとの建て替えには、「まったく同じものを新しく」という思想が宿っているのである。
 これは古い新聞記事であるが、10年ほど前の朝日新聞に「緑・ひと・心」という連載コラムがあった。その最終回に次のような記事が載っている。「いま、伊勢神宮で、神宮林を千年前の往古の姿に戻す、という壮大な森づくりが進められている。大正15年から取りかかった。完成予定は144年後の西暦2126年という。......」これにより、式年遷宮に使用する檜を自給しようというのである。
 これを私は、ガウディの聖家族教会と対比したいのである。数百年を単位として行われる建設の事業が、一方では建造物そのものに関して行われ、他方では建築資材について行われている。この是非を問うのは無駄なことであろう。ただ、その背後に一つの思想があることは述べてもよいであろう。キリスト教、特に初期のキリスト教にあっては、都市が文明の主体であり、目然は悪魔の棲む恐らしい場所であった。従がって人の住む場所は都市であり、都市が自然を征服することによって人間の幸福が増進すると考えられていたというのである。一方、我が国にあっては、山と森と水に守られて人々が生活してきたのであって、それを奪われることは生命を奪われることに通じているのである。この事実を日本人は現実にこの数十年の間に経験してきた。いわば、神宮の森は日本人を守り育んできた自然を象徴するものであり、その維持は日本の自然、日本の文化そのものの維持なのである。
 日本的発想からいけば、数十年ごとの建替を可能にするだけの木材を自給する体制を作ることが重要なのである。日本の国土の70%は山林である。そこに植林され、自生している樹木は日本人の居住する家屋の建設に適したものである。それらを活用してろ、できるだけ多く人々の住宅を建設し、数十年ごとに建替えるということは不可能なのであろうか。定期借地権の発想は、このとき初めて生きたものになるのである。神宮の森の発想は神宮だけのものでなくなるのである。専門家に考えてほしいと思う。そして、鉄骨或いは鉄筋コンクリート造りの住宅を建謹する際には100~200年間住宅として使用することを前提にものごとを考えて欲しいと思う。社会資本の充実とはそういうものではないだろうか。このように考えてくると、聖家族教会と神宮の森とは、正に両極に対比されるべきものと私には思えるのである。