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おさな子

2015-07-25 21:52:23 | 日記・エッセイ・コラム
 7月11日のブログで「最初の体験」について書いた。これにつき私の個人的記憶に触れてみたい。それは食物の好き嫌いである。
 私にはニンジンについて幼児記憶がある。それが、何歳のときであったかははっきりしないが、多分3歳以前であったと思う。スープの中に浮いていたニンジンのひとかけらに気を引かれ、口に入れたとき甘くてとてもおいしかったのである。以後ニンジンは私の大好物になった。
 好き嫌い、特に食わず嫌いといわれるものには、本人の記憶にない最初の体験が原因になっているものがあるのではないかと思う。

おさな子

2015-07-18 19:32:37 | 日記・エッセイ・コラム
先日妻とコーヒー店で休んでいたとき、隣に座った親子づれの幼児に母親が水を飲ませようとしていた。母親は水筒を手提げから取出し子供の口に水筒の吸口を押付けるが、その子は口を閉じて開かない。それを見て、私は、近くのテーブルの上の紙コッブとストローを指差して、それを使うとよいといった。母親がその通りにすると、その子は口を開いて水をのんだ。更に私はガムシロップを取ってこれを使うともっとよいと話した。ところが、母親は砂糖は虫歯の元だから入れないのだと応じた。親子づれで、親はコーヒーなどを飲んでいる。子供も同じことがしたい。私は、少しの砂糖も禁じるのはどうかなと思ったが何もいわなかった。その子はストローをくわえながら何か不思議そうな顔つきをしていた。

おさな子

2015-07-11 19:42:13 | 日記・エッセイ・コラム
バスやエレベーターの中で停止請求ボタンをしつこく押したがる子供をよく見かける。この子達がどんなキッカケでボタンに興味を持つようになったかときどき想像する。誰かがボタンを押しているのを見た、ボタンを押すと明かりがつくのに気づいた、親などが教えた、などなど。いずれにせよ、何かのときにボタンについて子供は最初の体験をし、それが後に反復、強化され、ボタンへの執着が生じたことは間違いない。そのプロセスをどう説明するか。考えると結構面白いかもしれない。


おさな子

2015-07-06 03:53:27 | 日記・エッセイ・コラム
前夜の(7/3)の二日酔いで頭がはたらかず、土曜日に投稿していることが習慣になりかけているせいか、一種の不全感が生じている。少し無理があるが、私が過去に雑誌に発表したものから一文を選んで投稿する。ちょうど神戸の連続児童殺傷事件のAの手記の扱いと絡んで何かの参考になると考えて。以下は、一文の抄録である。標題は「社会死」<JCCD79号(1997年11月), 14-16頁>である。
 本年臓器移植法が成立した。この法律は臓器移植の前提として人の死について従来とは異なる基準を採用することを認めている。いわゆる脳死である。
 私がここで論じたいのは、脳死そのものではなく、死の分類である。人が死ぬというとき、どのような状態でそれが起こるのであろうか。言い換えると、死はどのように分類できるのであろうか。厚生省の作成している人口動態統計には、死因の統計があり、非常に細かく死因が分類されている。それらを大きく分けると、自殺、老衰、病死、不慮の事故死の四種類になるようである。この分類は、それなりに意味のあるものということができ
るが、私にはやや物足りないのである。
 その理由は、死刑による死はこの分類のどこに入るのかとの疑問が生じるからである。おそらく、不慮の事故に含められるものと考えるのであるが、死刑による死は予定された死であって、不慮の事故という範疇にいれるのにためらいを感じるのである。ここから、私の考え方が出てくる。
 私は、死を自然死、事故死、社会死、自殺の四個に分類することを提案したいのである。自然死とは、病死、老衰による死亡である。人澗の生体のメカニズムが変化、即ち疾病又は加齢のために衰弱することによって死に至る場合である。事故死は、自然に生じる天変地異によってもならされる場合と人為的に交通事故などによってもたらされる場合との二つの場合が考えられるが、いずれにせよ、本人以外の外的な事情によって死がもたらされる場合である。しかも、それは本人も周囲の人々もまったく予期できないものである。社会死と私が呼びたいのは、上掲の死刑の場含である。これは、社会から死を強制されるのである。つまり、社会によって「死なされる」のである。これと似た死の形態は「戦死」である。戦死にあっては、戦争という限界状況の中で生じる誰に対しても責任を追求できない死の形である。しかも、その死は祖国によって賛美される性質をもっている。そして、最後に自殺は自らの意志によって生命を絶つことによってもたらされる死である。
 以上の四個の死の類型について別の表現を用いれば、自殺は個人の信念に基づく死であり、死刑による死は社会の規範(他人の意志)によってもたらされる死である。そして、この二個の死の間に(社会の規範としてあるいは個人の信念としての)人間の意志とはかかわりのない自然の経過あるいは意志とのかかわりの弱い人閥の行為に基づく事故・災害による死が存在するということができる。
 今日私たちは「脳死」を受け入れることをいわば「迫られている」と解釈できるように栂う。臓器移縮は、社会が他の健康回復の可能性のある人のために、健康の回復の望みのない人々の生命を活用することを求めているところから生じている。そして、そのために一部の人々の死を社会的に定義し、つまり、脳死を立法その他の方法で人の死としで承認し、その臓器を医療に役立てようとしているのである。社会死という分類(類型)をこれに
当てはめるのが適切だと私には考えるのである。社会規範によって定められた死がここでは問題になっているのである。
 恐らく、今後問題になると思われる「安楽死」にも同様な考え方が適用されるζとになるであろろうし.また、死刑に代えて例えば終身拘禁刑の採用が検討される時にも、社会死の概念が関わりをもつことになろう。