“隈研吾展”を観て
先日から早稲田建築AO入試を受験する人に聞きたいことがあります。「あなたの建築観はどういうものですか?」という問いかけに、あなたはどう答えますか?そんなのは入学してから学ぶからという風に考えている受験生が多いと思います。しかし自分のただ一度の人生で大学へ入学することが最終目標なのでしょうか?それはあくまで自分のこうしたいという想いが先人が言うところの、志ということにつながるの
ではないでしょうか?建築という専門的な職業は、手と頭を動かして自分が考える理想のイメージを建築という、表現を通じて実際に我々が生きている都市空間に創造するという自己表現の行為であり、それは論理的な部分と印象的で詩的なイメージが融合している総合芸術であると云えるのではないでしょうか?
むろん建築科でデッサンや立体構成を入試で行っている大学は、早稲田や横浜国大、あるいは東京芸大、京都工芸繊維大学のほか美術系私立大学など多摩美や武蔵美ほかありますが、学科だけの大学も数多く
あります。そこで早稲田大学の建築科AO入試で問われる、なぜ建築家になりたいと考えたのか、そしてなぜほかではなくここを選んだのか?という理由や動機、そしてあなたの想う建築とは?ということや、
入学後にどういう建築を創りたいか?というあなた自身の建築観を持っていないと、様々な質問や自己PR資料制作や集団や個人面接を始め、自己PRのプレゼンテーションでそれらすべてが、しっかりした同一の価値観である意思、信念、情熱があなたの心の底に流れていなければなりません。大きな建築を取り巻く未来や考えのイメージを持たねばならないと思います。
昨日東京駅の北口改札の上にある、東京ステーションギャラリーで開催している「隈研吾展」くまのもの…を見てきましたので、レポートをしたいと思います。隈研吾氏の建築の世界観は、一言で言うと私は”構造的美”を追求している、建築家であるといえます。様々な素材を観察研究し加工して一つの単位を連続させる自然物のような体系を、人工的な建築という形に落とし込んでいるように感じました。それはとても論理構築的な緻密な作業であり、とても工学的建築と云えるものでした。同じ”構造的な美”を独
自な視点で追求している、20世紀建築とは全く異なるスタイルである建築革命家のフランクゲイリーなどはあくまで論理ではなく、入り口がイメージを手作業のデッサンから入り、それをまさに彫刻家のように自由な素材で、自由な発想で建築の最初のイメージから模型という3次元の立体造形を軽やかに創っていると云えるので、隈研吾氏とは全く対極の入りかたと云えます。無論そのイメージを実際に巨大な建築物
にするには、構造計算に特化したAIのようなプログラムシステムが建築工程から部材の外部発注までを一つのプロジェクトにそれを裏側で可能にしているという、構造的なバックボーンがあります。しかし、あくまで彫刻のようなまさに、有機的曲線の巨大な彫刻的建築構造である偉大な建築芸術家アントニオ・ガウデイのサクラダファミリアと外観は異なりますが同じ系譜と云えます。今は亡き偉大な女性建築の革命家であるザハ・ハデイットは同じく曲線であり美しい洗練された曲面デザインであり、やはり最初の絵としての自分のイメージからコンセプトを立体にしています。女性である感性を十分に生かした美しいアクセサリーや室内のインテリアデザイン、様々な椅子や台所の什器デザイン、ファッションなど色彩もまた
独自に洗練された独自の有機曲線と曲面デザインを創造しました。無論それらの1時代前では建築不可能と言われた建築も、ゲイリーのように現代最速の構造計算専用のAIコンピュータがその外観の複雑な意匠を裏側で構造化して支えていることを可能にしています。まさに「詩的な美」と「構造的な美」がそのイメージを立体的に建築して可視化していると云えます。
芸美大系建築科は別にしますが、早稲田大学建築科入試がなぜ、昔から入試にデッサン今はドローイングやAO入試で、自己PR資料や面接での集団や個人プレゼンテーションや志望理由書を行うかの理由はそういうことにあるのです。ほかの誰かのまねではない世界で一人しかいない自分なのだから、独自な世界観がなければいけません。まねをしても専門領域である芸術や美術の世界では瞬時にわかるからです。
髙橋 順一
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