早稲田建築科やその他の美大や工学部系大学建築入試で実技にデッサンが必要な学校があるが、前にも書いたが物体を空間性を伴う正確さを立体的に平面に描写する前提の”客観的描写のデッサン”をはかる専門的な美術能力の実力判定試験ではなく、与えられた文章や用語から思い浮かべたことや感じたことなどを描くという内面のイメージを”想像力”で描くという”想定デッサン”あるいは”想像デッサン”という風に言うこともできます。
すぐれた歴史上の画家は昔から見た物をそのままに描くのではなく、自分が想う”自分の内面に存在する美の形”をキャンバスに描くという、自分の内面的な価値観を詩的な美へと精神的な昇華へと常に高めながら、新しい絵画や彫刻、あるいは建築芸術という自己表現を試み、自己成長し表現者として日々生きることが”自己実現”であるとても狭い道を孤独に耐えて芸術家として生きたと言えるでしょう。
今日は絵やデザインで鉛筆以外の描画素材の話をしてみようと思います。古典ではチョークがありますが、柔らかい木炭という昔からあるすぐれたデッサン素材がありますす。ただ、普通の紙にはのりにくいので、木炭紙という専用の紙とそれを受け止めるには木製パネルではなく、やはり昔からある紙製の”カルトン”という下敷きが適度のクッションとデリケートな木炭というデッサン用具を使うには必要なものです。鉛筆は先端が補足削れるので細部まで細かい描写に適しますが、パステルやチョーク、木炭は先端よりも側面全体を使えるので広い面積に有効と言えます。
私が個人的に本当に美しいと感じたのは、やはりレオナルド・ダビンチの”着衣のデッサン”や”スーラーの木炭デッサン”です。日本の画家では”安井曾太郎の裸婦デッサン”が美大受験などでは、有名ですが”ドガのデッサン”なども本当に美しい美術作品です。本当に美しいこれらのデッサンにはその芸術家の心が宿っているからです。単にうまいというのではなく画家の”心つまり魂が作品に宿り生きている”からです。そういう美しい世界がこちらに伝わるからです。木炭は細かい線で描くという技法には向きませんが、そういう意味では添付した”彫刻家のジャコメッテイの人物デッサン”は対極ですが、本当に美しい作品です。美術では序列やヒエラルキーというものはありませんので、それぞれのアーテイストの描き方はみな独自で世界で一つしかない様式といえます。
ただの概念や観念、技術、あるいは作為やアイデアだけの作品も見られますが、そういう作品は長い時間見ていることができないし、作品の内面に入ることができないので、表層的とも言えます。一度見て終わりの作品はその作品内部にある壮大な光景がないから何度も見る気がしません。しかし本当にすぐれた美術作品は、見るたびに美しい新しい感動と発見があり、心が洗われ時代や時間の経過を経過しても普遍的な存在感があると言えます。昔の木彫仏でいう魂入れということかもしれません。
受験も傾向と対策ではなく、やはり自分の心の中を見つめ本当の自己対話と内省をもとに、本当に表現したい事は何か?ということを建築という”構造的な美”と”詩的な美”を統合し世界に一人しかいない、あなただけのスタイルを築く最初の一歩を歩み始めることを願います。だから、勉強の合間に精神的に疲れたら、すぐれた本や美術館、あるいはコンサートなどすぐれた芸術家の複製ではない作品や演奏者や大自然のなかでデッサンしたりして、もう一人の自分を見つけてその心を聞いてください。
すぐれた歴史上の画家は昔から見た物をそのままに描くのではなく、自分が想う”自分の内面に存在する美の形”をキャンバスに描くという、自分の内面的な価値観を詩的な美へと精神的な昇華へと常に高めながら、新しい絵画や彫刻、あるいは建築芸術という自己表現を試み、自己成長し表現者として日々生きることが”自己実現”であるとても狭い道を孤独に耐えて芸術家として生きたと言えるでしょう。
今日は絵やデザインで鉛筆以外の描画素材の話をしてみようと思います。古典ではチョークがありますが、柔らかい木炭という昔からあるすぐれたデッサン素材がありますす。ただ、普通の紙にはのりにくいので、木炭紙という専用の紙とそれを受け止めるには木製パネルではなく、やはり昔からある紙製の”カルトン”という下敷きが適度のクッションとデリケートな木炭というデッサン用具を使うには必要なものです。鉛筆は先端が補足削れるので細部まで細かい描写に適しますが、パステルやチョーク、木炭は先端よりも側面全体を使えるので広い面積に有効と言えます。
私が個人的に本当に美しいと感じたのは、やはりレオナルド・ダビンチの”着衣のデッサン”や”スーラーの木炭デッサン”です。日本の画家では”安井曾太郎の裸婦デッサン”が美大受験などでは、有名ですが”ドガのデッサン”なども本当に美しい美術作品です。本当に美しいこれらのデッサンにはその芸術家の心が宿っているからです。単にうまいというのではなく画家の”心つまり魂が作品に宿り生きている”からです。そういう美しい世界がこちらに伝わるからです。木炭は細かい線で描くという技法には向きませんが、そういう意味では添付した”彫刻家のジャコメッテイの人物デッサン”は対極ですが、本当に美しい作品です。美術では序列やヒエラルキーというものはありませんので、それぞれのアーテイストの描き方はみな独自で世界で一つしかない様式といえます。
ただの概念や観念、技術、あるいは作為やアイデアだけの作品も見られますが、そういう作品は長い時間見ていることができないし、作品の内面に入ることができないので、表層的とも言えます。一度見て終わりの作品はその作品内部にある壮大な光景がないから何度も見る気がしません。しかし本当にすぐれた美術作品は、見るたびに美しい新しい感動と発見があり、心が洗われ時代や時間の経過を経過しても普遍的な存在感があると言えます。昔の木彫仏でいう魂入れということかもしれません。
受験も傾向と対策ではなく、やはり自分の心の中を見つめ本当の自己対話と内省をもとに、本当に表現したい事は何か?ということを建築という”構造的な美”と”詩的な美”を統合し世界に一人しかいない、あなただけのスタイルを築く最初の一歩を歩み始めることを願います。だから、勉強の合間に精神的に疲れたら、すぐれた本や美術館、あるいはコンサートなどすぐれた芸術家の複製ではない作品や演奏者や大自然のなかでデッサンしたりして、もう一人の自分を見つけてその心を聞いてください。
足の骨折で入院中でして、先生をTwitterで見付けました。
幸いにも他のバイタル的疾患は治癒し、生き存えてしまっています。
今、何をなさっているか等、想像はつきますが、ツイートも、かなり以前に途切れてまして、お元気なのか?が、心配になりました。
Twitterの即席アカウントは「ヒロムネ」です。
御連絡下されば幸いです。
波多野