なんとなく、ふわっと・・

写真と画像処理関係とひとりごとをなんとなく書き溜めていきたい

麻布台ヒルズで XLII

2024-02-03 21:23:07 | 写真



2023_12_05池袋・麻布台ヒルズ

森JPタワー33F 展望フロア スカイロビーで
一ノ橋JCTと元麻布ヒルズ
港区麻布台1

[LUMIX G VARIO 14-45mm/F3.5-5.6 ASPH]
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陽明門 VIII

2024-02-03 21:20:53 | 写真



日光東照宮2023_10_19

日光東照宮 LIX
日光市山内

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日本歴史写真帖 060

2024-02-03 21:14:41 | 日本歴史写真帖



右 板垣伯  左上 右 板垣伯の青年時代 左 相原尚褧
左下 板垣伯岐阜遊説中狙撃せられ負傷したる血痕付着の衣類

秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション

板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月16日、4月17日〈1837年5月20日もしくは5月21日〉 -
大正8年〈1919年〉7月16日)は、日本の政治家、軍人(土佐藩陸軍総督)、武士(土佐藩士)。
従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲、自由民権運動の指導者。東アジアで初となる帝国議会を樹立し
「国会を創った男」として知られる。伊藤博文、大隈重信と並ぶ「憲政の三巨人」の一人。また、
常に国防を重視し、近代日本陸軍創設功労者の一人でもある。神道の立場から理神論を唱えた。

岐阜遭難事件
明治15年(1882年)4月6日、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐阜事件)。その際、
板垣は襲われたあとに竹内綱に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ
死セン」と言い 、これがやがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった。
この事件の際、板垣は当時医者だった後藤新平の診療を受けており、後藤は「閣下、御本懐でござい
ましょう」と述べ、療養後に彼の政才を見抜いた板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と語って
いる。

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相原 尚褧(あいはら なおふみ、1854年頃 - 1889年頃)は、明治時代の士族、小学校教員。1882年
(明治15年)4月6日、全国遊説中の自由党総理(党首)・板垣退助の殺害を図ったことで知られている
(岐阜事件)。

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わたしにとって「板垣退助」と言えば、百円札の人である。その特徴的な髭の生え具合は記憶に強く
残っている。また、「板垣死すとも自由は死せず」という言葉は、百円札を見ながら親が教えて
くれたことが思い出される。この百円札は1953年には発行され、1974年に発行停止された。


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エクシブ鳥羽別邸で XV

2024-02-03 21:13:17 | 写真



2024_01_26伊勢神宮

三重県鳥羽市安楽島町 字ニエ

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反射

2024-02-03 21:11:16 | 写真



池袋2023_11_18

西池袋第一生命ビル
豊島区池袋2

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昨年の今日のエントリ


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