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右 板垣伯 左上 右 板垣伯の青年時代 左 相原尚褧
左下 板垣伯岐阜遊説中狙撃せられ負傷したる血痕付着の衣類
秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション
板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月16日、4月17日〈1837年5月20日もしくは5月21日〉 -
大正8年〈1919年〉7月16日)は、日本の政治家、軍人(土佐藩陸軍総督)、武士(土佐藩士)。
従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲、自由民権運動の指導者。東アジアで初となる帝国議会を樹立し
「国会を創った男」として知られる。伊藤博文、大隈重信と並ぶ「憲政の三巨人」の一人。また、
常に国防を重視し、近代日本陸軍創設功労者の一人でもある。神道の立場から理神論を唱えた。
岐阜遭難事件
明治15年(1882年)4月6日、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐阜事件)。その際、
板垣は襲われたあとに竹内綱に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ
死セン」と言い 、これがやがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった。
この事件の際、板垣は当時医者だった後藤新平の診療を受けており、後藤は「閣下、御本懐でござい
ましょう」と述べ、療養後に彼の政才を見抜いた板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と語って
いる。
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相原 尚褧(あいはら なおふみ、1854年頃 - 1889年頃)は、明治時代の士族、小学校教員。1882年
(明治15年)4月6日、全国遊説中の自由党総理(党首)・板垣退助の殺害を図ったことで知られている
(岐阜事件)。
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わたしにとって「板垣退助」と言えば、百円札の人である。その特徴的な髭の生え具合は記憶に強く
残っている。また、「板垣死すとも自由は死せず」という言葉は、百円札を見ながら親が教えて
くれたことが思い出される。この百円札は1953年には発行され、1974年に発行停止された。
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