
右暗殺者西野文太郎 xxxせられたる文部大臣森有禮君
秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション
森 有礼(もり ありのり、旧字体: 森 有禮、1847年8月23日(弘化4年7月13日) - 1889年(明治22年)2月12日)は、
日本の政治家、外交官、思想家、教育者。通称・助五郎、金之丞。栄典は贈正二位勲一等子爵。
第1次伊藤内閣で初代文部大臣となり、諸学校令制定により大日本帝国期の教育制度を確立した。また明六社、
商法講習所(一橋大学の前身)の設立者、東京学士会院(日本学士院の前身)会員であり、明治六大教育家に
数えられる。
明治22年(1889年)2月11日の大日本帝国憲法発布式典の日、それに参加するため官邸を出た所で国粋主義者・
西野文太郎に短刀で脇腹を刺された。応急手当を受けるが傷が深く、翌日午前5時に死去。43歳だった。
当時の新聞が、「ある大臣が伊勢神宮内宮を訪れた際、社殿にあった御簾をステッキでどけて中を覗き、土足
厳禁の拝殿を靴のままで上った」と報じ(伊勢神宮不敬事件)問題となった。この「大臣」とは森のことではない
のかと、急進的な欧化主義者であった森に人々から疑いの目が向けられる事となった。この事件は事実かどうかは
定かではないが、この一件が森が暗殺される原因になった。木場貞長はのちにこの事件は事実無根であると
書き残している。
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西野 文太郎(にしの ぶんたろう、慶応元年9月9日(1865年10月28日) - 1889年(明治22年)2月11日)は、
日本の不平士族、国粋主義者。森有礼の暗殺犯である。
1887年(明治20年)、文部大臣森有礼が伊勢神宮において不敬な態度をとった(伊勢神宮不敬事件。伊勢神宮に
参拝した際、拝殿に掛かる布の簾をステッキで払い除けて中を覗いた)という報道が行なわれる。この事件については、
事実ではないという説も強く真偽は不明であるが、当時伊勢神宮造営掛であった西野はこれを信じ、森を許せないと
考えるようになった。こうして西野は、1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法発布式典の出席準備をしていた
森を訪ね、出刃包丁でその腹部を刺すという犯行に及ぶ。森は出血多量で翌日死亡したが、西野もまたその場で森の
護衛に台所まで追い詰められ、仕込み杖により斬られて死亡した。23歳であった。
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