友達がいた。仲間がいた。みんな自由を唱えていた。若さで身を守りながら、それぞれが自分達の道の限りを遠望していた。時間は若者たちを認めながらも代償を課した。一人一人次第にみんな『家』に戻って行った。そして彼らは「成人」した。
生々流転の「時の重圧」を彼らは受け入れたし、そうせねばならなかった者もいた。時間が投影した一本の道の他にも、まだまだ『歩ける道』は在った筈。彼らは決して「断念」という言葉は使わず「成人」と言い換える。人々は昔、みんな街の外に居たのに…。今では「街の外には街が在る」と盲信せずにはいられない。そしてそこに掛け替えのない人生を送る。『素晴らしい』変身。時計の文字盤を二つの目に持って今日を、明日を、明後日を急ぐ。難解・複雑・混沌なる時の流れの中心に、神は「有り難い啓示」を下す。
友達がいた。仲間がいた。みんな街の外で戯んでいた。心に広がる世界は、未だ見ぬ見えない世界すら覆っていた、みんな旅をしていたのに、誰が言ったの? 「時は知恵者」って。青き彷徨は見果てぬ夢と化して、埃を被った思い出の殿堂入り。みんな街の中へ入って行ったけれど、私は街の外へ向かった。疲れる度に眠った。樹下夢、樹下夢・・。
誰もが若さを武器としていた。順応という力をその次に勝ち得た。私には意固地な迄の自我の強さが残った。いつでも、街の外へ向かう事が心に安らぎを与えた。旅から旅への転暮し。私の時間は、明日から昨日へと向かう。
友達がいた。仲間がいた。みんな信じられない夢を描いていた。でも今、みんなは各々に『昨日の人』。天性の放浪癖は、幼い頃の家庭の崩壊と共に、固有の人生観を生み出した。自我と音楽と自然。私の轍に残されたものは、こればかり。私は若さを『時に返した』代りに自由を得た。今暫くはこの轍は続く事だろう。そしてこの轍こそ、真に矛盾してはいるが、私の若さの正体である。人に有るものが無く、人に無いものが有る。そこには寂しさが存在する、しかし、それでも「寂しき狩人」は歩く。
友達がいた。仲間がいた。いつでも,誰かが誰かであった。今、みんなは『一人の人』に成った。そして私は「寂しき狩人」。ガラスの玉葱越しに世界を見ているところ。
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