理想像の正体。私が欲しかったのは「私自身」であった。それは無我夢中でギターをかき鳴らし、、大声を張り上げて歌っていた時の姿でも、旅をしていた時の姿でもない。やりたい事ばかりを続けて、自分の道からはみ出してしまっている(?)様に思える時の姿でもない。どんな姿でもない。敢えて言うなら『何も無い、真っ白な空間で有り続ける姿』 だった。それが、私が私に望んだ「私自身の姿」であった。
『何者』 かに成ろうとするのは、比較的容易な事かも知れない。何しろ「お手本」となる、ちゃんとした理想像が有るのだから。必要とするものは、全て吸収し続ければいい。プールに水が一杯になったら、また別の穴を掘ってパイプで繋げれば良いのだ。しかし、それとて人の一生。言葉通りには行かないものである。 それよりも「何者でも無い者」、換言すれば、既成のものではない、存在不可能と思える様な『無の者』 に成ろうとする事はより難しい。嘗てジョン・レノンが「Nowhere Man」 を歌ったが、別に私は、「Nowhere Man」 を意識したわけではない。不可解な『何も無い、真っ白な空間人間』 というイメージを、孤独を愛してはいるが本来生まれながらに人懐っこいこの私が、一体どの様にして抱いたのであろうか?
ところで、私が私の理想像をはっきりと認めそれに向かったとしても、現実には常に逆を進んでいる事も認めねばならない。こう云ったからといっても、その「逆」が「人並」という事ではない。そもそも出発点となるべき『方向』 が異っていたのだから。だが不本意ではあっても、結実点「帰着駅」 が既成社会の中へ向かっているとしたら…、それはこれ迄の人生が否定されるのではなく、紛れもなく「人間」 である事の、時の重みの成せる業かも知れない。所謂世間の「まとも」 な人々は、早くから「そこ」 に道標を定めて、不自由さを感じても感じなくても…進んでいる。個人の価値観を「そこ」 で選択しながら…。
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