小説 徐福と童男童女3000人の子孫⑲
ここでお大師さんは一段と声を大きくして嘆かわしそうな顔をなさいました。さては、現代社会への警告をなさるのか、これは心して聞かねばいけないとおもわず身構えました。この警告を聞いて準備すれば私だけが助かるかもしれないと浅はかにも考えたからです。しかしそんなことではなく、ご自分の思いの吐露だったのです。そんなことなら関係者の夢枕にでも立ってくれたらいいのですが。私は、関係者ではありませんから聞きたくもない話ですが折角ですから記録しておきます。
「三教指帰は私の出家宣言書であるが、同時に人類にとって大事な終末観が書かれている。もちろん西洋のとは少し異なる。この終末観から今の自分たちの行動を決定するからとても大事なものである。」とおっしゃる。
びっくりしてしまいました。終末観をある人々がお持ちなのは存じていました。しかしそれは杞憂であるに違いないと思っていました。きっと晩御飯のおかずを何にするのが一番安上がりでかつ次の日元気になるかについての複雑な考察をする必要のない暇人のする知的遊戯であると思っていました。
「私の願いは、この滅んでいく世界の中の衆生を救済することである。世界終末に際しては、この私の衆生を救済したいという願いすらも劫火に焼かれて燃え尽きてしまうものである。」
なるほど、そんな先のことまで考えてるのなら人々を導くお大師さんの名前を頂いた理由もよくわかります。しかし、本当にそうなるんなら私はこんなところで350円の徐福饅頭を食べてる場合じゃない。奮発して1200円出してホテルのケーキセットを食べておかないと思いが残るではないのか。
「この私の終末観こそが、無常観と呼ばれるにふさわしいものだ。であるのに、鴨長明君の方丈記を無常観を表現した名文だという人がいるのは実にけしからん。彼はゴリゴリの出世主義者である。それがうまくいかなかったので、腹いせに出世しても空しいだけだという文章を書いただけだ。自分で自分を慰めているだけだ。あんなものを無常観にしてもらいたくない。」
なるほど、イソップの酸っぱい葡萄のお話ですな。これは納得できます。しかしよく似た話は西洋東洋にあるものですね。
「小林一茶君の俳句だってほのぼのとした日本情緒とか言ってるけど、彼も遺産相続で負けた恨みをあそこに逃がしているだけだ。」
まあそうかもしれないけど、無常観とは関係がなさそうな気がしますが。
「吉田兼好君は旧姓を卜部と言って占いをする御家の人だ。占いの際にはまず相手の人間観察をしないといけないが、そのメモ帳が徒然草だ。平家物語はこの前言ったけど頼朝君の作ったコマーシャルソングだ。源氏物語は大衆週刊誌の続き物の記事だ。」
ますます無常観とは離れていきます。ここではたと気づきました。お大師さんは、ご自分の三教指帰が教科書に載っていないのが腹立たしいのではありますまいか。徳は名に蕩(とう)す(荘子)と言います。徳のある人と言っても、名誉欲名聞欲のがあって徳がある人という評価を受けたい欲からは逃れられないようです。どうもお大師さんにもここはあるのではないかというのが感想でした。