本の感想

本の感想など

読書反省文②  読書の家は富貴の家 内藤湖南

2022-09-27 12:30:38 | 日記

読書反省文②  読書の家は富貴の家 内藤湖南

 むかし、陳舜臣の「中国の歴史」を読破しようと試みてほぼできたんですけど、電車の中とかで読むもんだから全く頭に残らなかった。それより小説家の本だから誰それがどうしたということを詳しく書いてあるのでそれに囚われて背景が分からない。それに王朝が変わるごとに同じような事件が繰り返されるので、今読んでいるところが宋王朝なのか明王朝なのかついにはわからなくなってしまうということまで起こってしまった。

 その後宮﨑市定の「中国史 上下」(岩波全書)を読んで、やっと蒙を啓くことができた。同じことを繰り返していない。各王朝は違う背景をもち違うことをやっている。市定さんの本は面白かったし論理的に書かれているので分かりやすいのでずいぶん読んだ。この人の先生である内藤湖南はもっと面白いかもしれないと思って岩波から「中国近世史」を買ってきて読んだ。

 私は他のことはさっぱり呑み込みが良くないが、本はかなりの速さで読む自信がある。それがさっぱり読めないので困った。しばらく置いておいてまた再開することを何度も繰り返してとうとう読みきることができなかった。かなり長い時間反省をしてやっと理由がわかった。

この本は口述筆記なので文章のリズムが普通の文とは全く異なる。頭にスーと入らない。ちょうど古い神社の階段を上るようなもので、現在の建築基準法に基づいていないからやたら高い段があるかと思うと次のは低くなっていて歩きづらいのである。現代の散文でさえもリズムがないととても読みにくい。落語を口述筆記した本はまだ読めるが、学者先生の口述を読むのはよほどの努力がいる。

さらにいろいろ考えた。この講義がなされたのは大正末年であるが、その数年後には満州事変が起きている。当時の時代の空気は、その是非はともかくとして日本は植民地拡大しないとやっていけない一辺倒だったろうと想像される。そこでこの講義がなされたのなら、ここへ赴任する軍人さんだけでなくここで一旗揚げようとする実業家までもがこぞって興味を持つはずである。そういう講義だったのではないか。相手側をここまで調べるのは勉強熱心であった。そのくらいでないと一旗は絶対上がらない。よく言われている日本の行き当たりばったりの拡大ではなかったのではないかと推察される。

この時代背景での講義だから、今の私が読んで読みにくいのである。そういう興味が無いのであるから。文のリズムだけの問題ではなさそうだ。本は今の自分が興味のあるものを読まねばいけない。

 

ところで、その後日本は対米戦争するけど戦争の前に、米国近世史の講義をしたのかな。多分してないと思う。当時の日本は、何も孫子さんにお出ましいただき喝破していただかなくとも当然やるべき勉強をしていなかったような気がする。


読書反省文① 読書の家は富貴の家 西遊記

2022-09-27 10:51:46 | 日記

読書反省文① 読書の家は富貴の家 西遊記

 まだ香港が中国に返還される以前の香港の街を歩いていて、見上げないと読めないくらい大きな派手なネオンサインで「読書の家は富貴の家」と書いてあるのを見て感心したことがあった。日本でこのキャッチコピーでは絶対売り上げ落としてしまいそうだけど、この分野に特化した出版会社の看板にいいのではないか。

 わたしは少しは本を読んだつもりであるが、読んだ本がいけなかったか読み方がいけなかったか、富貴の家にはこれからであって今のところまだなっていない。そこでここを反省しながら感想文(反省文)を書きたいと思う。

 

 小さいころから西遊記 水滸伝 三国志演義は大好きであった。高校に行ってから金瓶梅を図書室から借りてきて挑戦したが最初読んだだけで退屈して放り出して以後一遍も挑戦していない。三奇書は読破したけど四奇書はどうやら無理の様子である。

 このうち水滸伝は、滝沢馬琴が里見八犬伝に翻案しておおいに売れたであろう。もっともこの挿絵は北斎であったというからどちらの功績であるかははっきりしない。三国志演義は、講談本の原型になって広く売れたと想像される。金瓶梅も何かの原型になっていると考えられるがこれは知らない。

 むかし高校生の時漢文の教師が「千年以上前の古典を読め。新刊書はいけない。」と力説していた。そりゃ皆新刊書読むようになったらあんたの商売成り立たないもんなと皮肉な目で見ていたが、こう並べてみると売れた古典を翻案して現代風の物語にするのは、いい仕事になるのかもしれない。

 テレビドラマの水戸黄門は、見ることが無かったがつい最近再放送を見て突然思いついた。これは、西遊記を下敷きにしたもんだ。西遊記でも黄門でも旅をしながら悪人をやっつける。悪人は孫悟空猪八戒または助さん格さんによっていいところまで追いつめられるが、最後の詰めは観音さんまたはご隠居が、何かの霊力のある印を示すことで行われる。悪人は退治ではなく、改心することでその町または村が平穏になる。三蔵法師は主要な登場人物ではなく、水戸黄門では三蔵法師と観音さんをご隠居一人で兼ねている。遺憾ながら沙悟浄は、黄門様には出演されていない。

 思うに、昔の中国の農村には近くの山に山賊が巣くっていて時々荒らしまわる。これを退治してもまたその山には別の山賊が住み着くことを繰り返していたに違いない。山賊が改心することは切なる願いであったと考えられる。同様に当時の日本の職場には、派閥対立が激しく一方は他方を敵悪人とみなしていた。なんとか平穏のうちにこの敵悪人を改心させたいとお互いに願っていたと考えられる。

 ここに目を付けた水戸黄門の制作者は、実に慧眼であったと思う。昔の中国の農村と当時の日本の職場がよく似た困りごとを抱えていれば、よく似た物語がヒットするはずである。古典を読むときには、その古典がどういう人々に書かれてどういう立場の人々に支持されたかまでを読み解かねばいけない。そうしてそれが現代の人々のどの部分にどういう相似形で表れているかを見ぬかねばいけない。ああ面白かったとか、さすが古典には立派なことが書いてありますでは、とても富貴の家にはならないと考えられる。

 無条件で立派な文章というのはこの世の中にはないのである。