本の感想

本の感想など

昭和が戦後であったころ②

2022-09-25 20:29:57 | 日記

昭和が戦後であったころ②

香具師

 神社の縁日には、香具師が傷薬を売っていた。普通の家には富山の薬売りが廻っていて置き薬を置いてあるから、香具師の売る傷薬は売れないと思うが、娯楽のない時代であるから黒山の人だかりだった。袴をはいてひげを生やしたおじさんが、刀で自分の指をちょっと傷つけてから持参の軟膏を擦りこんで、ほーれもう治ったじゃろうというショーを見せる。そんなにすぐ治るのはおかしいと思ってみていると、隣にいた母親があれは手品で本当は傷つけてないんやと私に対してささやく。私は手品の意味が分からないので黙っていたが、なんとなく芝居であることはわかった。

 このおじさんのよくとおる声とか、間合いの取り方とかはよく覚えているが今のテレビの芸人さんと同じくらいうまかった。もっとうまかったかもしれない。口上が終わって治った傷をお客一同に見せたあと「さあ欲しい人。」というと2人ほどが「買った。買った。」と勢い良く手をあげる。ここで母親が「あれはさくらと言って、この団の人なのよ。ああすればお客の中に買う人が出てくるから。」と教えてくれた。

 おじさんの熱演にも関わらず、この2人以外に買った人はいなかった。従って私が見たイベントは、おじさんは無報酬ということになる。気の毒にやり損であった。私はあのさくらの人が、あとであの商品を返して、おじさんがお金を返すところまで見たかったがそれは無かった。母親はこう説明した。「あの一座はこうやって旅を続けて行くんだよ。旅芸人と一緒だがこうすると芝居小屋に金払わんでも済むやろ。」この意味は、もっと大きくなってからしかわからなかった。たださくらの人は、気合の入った声で「買った。買った。」と言うだけで一日の仕事が終わるようだからなかなか楽でいいな、ひげのおじさんと同じ給料なら断然さくらの方をやりたいなと思ったのでこれはよく覚えている。

 香具師を見たのは一度きりであった。子供相手の紙芝居屋と同様テレビができて一挙に消えた仕事である。紙芝居屋の方は、見に行くことを厳しく禁じられていたので話には聞いていたが見たことは一度もない。テレビも黒電話も家に無かったが人々は、娯楽を求めていたしこうして十分かどうかわからないまでも娯楽が提供されていた。(しかもこの場合は無料になっている。)決して仕事ばっかりしていたのではない。暗い時代でもない。それなりに楽しかったのではないかと想像される。

 


昭和が戦後であったころ  松茸 クジラ 卵

2022-09-25 10:04:25 | 日記

昭和が戦後であったころ  松茸 クジラ 卵

昭和30年40年の日本の地方都市の生活がどんなものであったかを是非書き残しておきたい。記憶だから間違いがあるかもしれないが、よくありがちな話を盛るということのないようにしながら書きたい。

 

 あるとき母親が七輪に火を起こして金網に割いた松茸を置いてパタパタあおいでいた。通りがかった私が「まったけ、カスカスでおいしないわシイタケ食べたい。あっちのほうが肉厚でおいしい。」と言ってしまった。母親は「かせぎもないのに食いもんに文句言うな。」と怖い顔していった。私はかせぎという言葉を知らなかったので、辞書で引いてこの言葉の意味を調べた。「稼ぎ」と書くらしい。しかしカセギのある私の父親がよく似たことを言っても同じようなことを言い返されていたような記憶がある。松茸は、当時ありきたりの安価な食材だった。同じように数の子も安価で、魚屋の店先にバケツに入れて積まれていた記憶がある。ただしこちらは我が家ではあんまり食べなかった。

 肉はほとんど食卓に上らなかった。鳥も極めて少なかった。ほとんどは魚であった。一番はクジラ肉で、大抵はてんぷらにするか何かの野菜と炊き合わせてあって、独特の臭みがあったがまずいとかは思わなかった。クジラベーコンもよく食べたし、コロと呼んでいたがクジラの尾のみは大変おいしかった。学校給食ではクジラ肉はもうこれ以上は薄くできないというほど薄く切って、思い切り分厚い衣をつけてあげたフライが供せられた。クジラ肉は当時安価であることは皆に知れ渡っていたので、なぜここまで薄く切る必要があるのか子供心に不思議であった。いつの間にかクジラは姿を消した。

 魚は、さんまやアジがほとんどであったが、節分の日には必ずイワシであった。これは小骨が食べにくいので小さい子供には苦手であった。あとで必ずその頭をヒイラギの葉を添えて棒に突き刺して家の前に小さい旗のように飾った。イワシを食べに来た悪い奴がヒイラギのとげのところが喉に当たって痛くて逃げていくという説明を母親から受けた。(このようなまじないを信じていたわけではないが習慣としてどこの家もやっていた。)イワシの頭は食べるところがあんまりないようだし第一おいしくなさそうであんなもん好物とは変な奴だなと思ったのと、一回痛い思いをすれば二度とイワシがどんなに好物でも飛びつかないはずなのに、その悪い奴というのは間抜けな奴だなと思ったのでよく覚えている。

 卵は、一個が20円くらいして極めて高価であった。玉子屋さんといって、街の中で玉子だけを扱う小さいお店があってたっぷりのもみ殻にくるまれて大事そうにおかれていた。玉子は特別のご馳走であった。当時は割ってみると血液が入っていたり、黄身が二個入っていたりするものもあった。しかし、味は濃厚で色が本当の黄色であった。昭和の終わりごろ中国を旅行して、全く同じ色の黄身で同じ味がして懐かしかった。玉子は物価の優等生というのは嘘である。昔と今は同じ形でも同じものではない。昔のものはなくなって、同じ値段同じ形で違うものが売られているだけである。

 夏には、田舎の本家に預けられた。そこではたまに鶏をつぶして鳥鍋をごちそうしてくれた。これも今とは全く違うもので実に濃厚な味である。同じ味の鳥は同じく昭和の終わりの中国で出会ったのが最後である。思うに、文明が進むに従って鶏に関係するものはみなまずくなる。